山本周五郎礼賛

彦左衛門外記

川本三郎さんの『映画を見ればわかること』キネマ旬報社、→11/12条)中の一篇「山本周五郎のことなど」を読んでいたら、山本周五郎の小説を読みたくなった。川本さんはこのなかで、映画化された新旧の山本作品に触れ、そこから次々と連鎖的に話題をつなげ、最後は川島雄三の話で締めくくる。
「同業者とはほとんど付合わない。文壇のパーティなどには出席しない」直木賞毎日出版文化賞辞退、「生活は慎ましく、終生借家住まい」「お金にきれいな人」、原作が舞台化されても切符は「いつも自分で買い上げた」「下駄を履いて町を歩くのが好きで、それも長屋が並ぶ路地や横町をよく歩いた」。こんな魅力的な人柄に接すると、もうたまらなくなる。
そこで、先日重版されたさい買っておいた『彦左衛門外記』*1新潮文庫)を読むことにした。「外記」は官職名の「げき」でなく、「がいき」と読む。「外伝」と同じ意味である。つまり大久保彦左衛門外伝(もしくは異聞)といったおもむき。
これはすごい小説だ。奇想天外天衣無縫。七百石の旗本に養子に入った五橋数馬という青年侍が主人公。彼は宇都宮十一万石の大名奥平家の姫君に一目惚れしてしまう。結婚するためには家柄が違いすぎるので、出世を志す。踏み台と定めたのが大伯父の大久保彦左衛門。彦左衛門は親戚大久保忠隣と本多正信の政争に巻き込まれ、敗れた忠隣に連座して所領を取り上げられ本所に隠棲し、菊づくりに精を出す毎日。
数馬が大伯父から聞く戦場話は、およそ勇猛とはかけ離れただらしのない経験譚ばかり。これを一級品の戦功譚に仕立てあげ、また彦左衛門が家康から頂戴したという「天下のご意見番」のお墨付きを本物らしく偽造し、彦左衛門をその気にさせてしまう。
すっかりその気になった彦左衛門は、勇躍死の床にある二代将軍秀忠のもとに駆けつけ、お墨付きをお目に入れる。すると父の書いたお墨付きを目にした秀忠は涙を流し、その隣に自分の花押まで加えてしまう。虚が実にくるりと反転する決定的瞬間。ここが物語のクライマックスだ。数馬は出来心で偽造したお墨付きがひとり歩きし、彦左衛門の戦陣譚があたかも真実のように受け入れられてしまうことに恐れをなす。無味乾燥な事実が脚色されきらびやかでフィクショナルな合戦物語につくりかえられるという、物語の成立に対する諷刺もきいている。
そもそも最初のページにある主人公のエピソードからして人を食っている。

彼(数馬―引用者注)は幼名を小三郎といった。初めて野心をいだいたのは五歳のときのことで、それは「砂糖漬けの棗をいちどきに五百喰べて母親と夫婦になる」ということであった。
砂糖などという食品は、国持ち大名でもおいそれとは口にできない時代のことだから、三千石ばかりの旗本では「棗」は手が届かない。そこが彼の野心の遠大なところであろう。しかし「母親」のほうは手が届くので、砂糖漬けの棗を二百八十三だけ空想で喰べ(それ以外は空想ですらげっぷが出たそうである)さておもむろに、母に向って云った。
――お弓、こよいはとぎだぞ。
このファルスとも見紛う踏み外しようは全編を貫くもので、さらに物語中に作者まで登場するメタ・ノベルの様相も呈している。半ばほどに挟み込まれた「挿話」なる一章は、こんな述懐から始まる。
この物語の作者である私は、いまたいそう苦しい立場に置かれているのである。半年ほど歯齦神経に悩まされたうえ、人事の出入り葛藤が多く、仕事に没頭する時間を取られたうえ、気がついてみると物語の中に登場する人たちにもそっぽを向かれてしまった。(130頁)
さらに物語の登場人物と作者が会話をし、詰め寄られた挙げ句登場人物に向かい「そのつもりになれば、あなたなんぞすぐに消してしまうことができる」とうそぶく。文庫版解説の奥野健男さんはこの部分を例示して、「前衛小説的な小説技法」に通じていることを指摘し、類例として筒井康隆の『虚人たち』をあげる。山本周五郎「小説の本質をたえず疑い続けた前衛作家」なのである。だとすればそういう作家・作品に惹かれる指向のある私が惹かれぬはずはないのだ。
まだまだたくさん未読の山本作品があると思うだけで心が弾んでくる。