第61 小春日和の本郷興奮記

洲之内徹小説全集

人形作家石塚公昭さんのサイト(こちら)で先日来、「D坂の殺人事件が似合う古書店」という面白いアンケートが行なわれている。来年刊行される初の作品集を江戸川乱歩をテーマに制作されるということで、アンケートで寄せられた古書店を舞台に、「D坂の殺人事件」が再現されるのだろう。いまから作品集のできあがりがとても楽しみだ。
詳細は上記石塚さんのサイトをご覧いただきたいが、「D坂の殺人事件」で描かれる殺人の舞台となった古本屋はこんなたたずまいをしている。

古本屋はよくある型で、店全体土間になっていて、正面と左右に天井まで届く様な本棚を取付け、その腰の所が本を並べる為の台になっている。土間の中央には、島の様に、これも本を並べたり積上げたりする為の、長方形の台が置いてある。そして、正面の本棚の右の方が三尺許りあいていて奥の部屋との通路になり、先に云った一枚の障子が立ててある。いつもは、この障子の前の半畳程の畳敷の所に、主人か、細君がチョコンと坐って番をしているのだ。(光文社文庫版全集)
いまの世の中、これにぴったりの古本屋はそうそうあるまい。ネックなのは、奥の障子以上に、「土間の中央には、島のように、これも本を並べたり積み上げたりするための、長方形の台がおいてある」という点なのではないか。だいたい中央部にも本棚が据え付けられた店が多く、平台は少ないのではないかと思う。三つ目の条件「撮影をお願いする都合上、主人が永井荷風タイプの人物でない事」には笑いを誘われる。いかにもそんな古本屋、荷風タイプの食えない店主が奥に鎮座していそうだから。
さて、私も乏しい経験のなかから数軒思いあたるお店があったので、石塚さんにご報告した。このほかにも「あそこはどうだろう」と気になる古本屋があり、また、報告した物件のなかにもいまいちど自分の目で確かめておきたいというお店もあったので、小春日和の昼休み、散歩がてら訪れることにした。
気になっていたのは小石川蒟蒻閻魔脇にある大亞堂書店だ。本郷台地を下り菊坂下に出ると、そのまま西の突き当たりが蒟蒻閻魔。そのすぐ右(北)にこのお店はある。このあたりはここ数年の再開発で高層マンションが建ち並び、すっかりおもむきを一変させてしまった。千川通り沿いの、古くて多少寂れた感のあった、でも風情もあった商店街がマンションの清潔なファサードによって一掃されてしまったのには驚いた。もったいないことである。歩き甲斐がなくなってしまったではないか。
そのなかでかろうじて命脈を保っているのが、タイル貼りのファサードに右から店名の文字が貼り付けられている大亞堂書店と、千川通りを挟んでそのはす向かいにある、銅板貼り看板建築のもつ焼き屋遠州屋。大亞堂書店は店の半分が貸本屋になっていて、昔の漫画がパラフィンに包まれてずらりと並んでいる。残り半分の古本屋のスペースは、未整理の本が積み上げられていて見にくいことこの上ない。
お店に入り奥の帳場をのぞいて見ると、ちょっと「D坂」的ではなく、アンケート推薦はやめることにした。しばらくご無沙汰してしまい記憶が不確かだった。この店はたたずまいだけはよくて、買おうと思えるような本になかなかめぐりあわないのが残念。
小石川から引き返し、今度は西片の台地に登ってぶらぶら歩く。「空橋」(清水橋)を渡って本郷台地に戻り、本郷通り沿いの棚澤書店をのぞいてみた。アンケートの話を聞いた時、真っ先に思い浮かべたのがこの店だったのだ。明治期に建てられたという出桁造の商家建築で、登録有形文化財となっている(2002年3月文化審議会答申「文化財建造物(建造物)の登録について」)。最近二階の出桁部分を新しくして、最初のうちは白木が生々しくて違和感があったのだが、時間を経るにつれ雨風や車塵にまみれ、茶色くなった他の木造部分としっくり馴染んできた。
店の入口こそサッシのガラス戸なのだが、なかに一歩足を踏み入れると明治大正の時代に逆戻りしそうな埃っぽくて黴臭そうな(失礼)空間が広がる。レジも時代物で一見の価値がある。ここは段ボール箱に無雑作に詰めこまれた店頭の100円均一本のなかに、稀に掘出物があるので時々のぞくようにしている。今日は店頭本にめぼしいものはなかった。
所期の目的を果たすため、店内に入る。残念ながら奥は障子ではなく、ガラス戸だった。でも「D坂」の雰囲気は損なわないと、胸を張って推薦できる空間であることを再認識した。
せっかく中に入ったので、店内の本も見て回ることにする。店内にも外に出し切れないとおぼしい均一本が並べられて(積まれて)おり、今日はそちらのほうから掘出物があった。下記の[購入本]参照。
さらに店内を見て回ると、真ん中にある書棚に、興奮の大大掘出物を見つけたのである。洲之内徹小説全集』1*1・2*2(東京白川書院)がそれ。何と2冊で2000円の値札が付いている。洲之内徹は若い頃、芥川賞候補にもなった小説を書いていた。この全集は彼の小説作品を集めたもので、いまでは入手困難本になっているのではなかったか。かつてこの全集の特装本を高輪の古本屋で見たことがある。もちろん手の出る値段ではなかった。
本書について、『sumus』5号の洲之内徹特集に関連し、同誌のサイトに収められている「洲之内徹資料室」のなかで、同人の山本善行さんがこんなことを書いている。
1983年に東京白川書院から『洲之内徹小説全集』として2巻にまとめられたのも、絶版になっていて、1000セットしか出ていないこともあり、古本屋でも見ない。(「洲之内徹論」のなかの「洲之内徹の小説と美術随筆」)
それがいま目の前に2000円で並んでいるのだ。しかも帯・パラフィン・月報までそのままの美本が。古本屋で実際に出会うとは考えもしなかったので(入手するとすればネット古書店だと思っていた)、興奮しないほうがおかしい。
ところが給与生活者の悲哀、給料日直前なので、恥ずかしながら財布のなかには新1000円札一枚しか残っていなかった。2000円の値がついた大掘出物をその場で買えない侘しさ。やむをえず取り置きしてもらう。取り置きしてもらったのはいいけれど、後日引き取りにいったら、値札に書かれてあった「二千円」の文字が「二万円」になっているのではないか、もとより「万」を「千」と見間違えたのではないかなどといういわれのない恐怖にとりつかれ、心ここにあらずの状態で仕事が手につかない。
意を決し妻にお伺いを立て、銀行口座からお金を引き出す許可を得(私はここ数年自分で口座からお金をおろしたことがない)、ようやく待望の本を手にしたのである。古本屋で興奮したのはしばらくぶりのことだなあ。石塚さんのアンケートに触発され棚澤書店を偵察するつもりが、身辺を騒がし興奮させる一大事に発展するとは思わなかった。石塚さんに感謝しなければならない。