華族が気になる

家宝の行方

華族が気になる。明治時代、江戸以来の大名諸侯、公家、維新の功臣らは公侯伯子男の爵位を授けられ、士族平民と区別され特権階級となった。それが華族である。
歴史好きになったはじめのころから、私にはこうした階級社会(階級組織)というものへの関心が衰えずつづいている。軍隊・警察もその一例。警察ということで言えば、たとえば「踊る大捜査線」や横山秀夫さんの小説など警察組織の内部を取り上げたものに惹かれてしまう。華族への関心はその最たるものである。
華族が出てくる小説も気になる。たとえば江戸川乱歩の『化人幻戯』(大河原元侯爵)や横溝正史の『迷路荘の惨劇』(古館伯爵)を思い出す。乱歩や正史の作品で華族が登場するものはもっとあるような気がするけれど、不思議なことにこれらマイナーな2作品がまず頭に浮かんだ。
華族制度史ということであれば、浅見雅男さんの華族誕生』*1公爵家の娘』*2の2著(いずれも中公文庫)が知的好奇心を満たしてくれた。このほどそこに小田部雄次『家宝の行方―美術品が語る名家の明治・大正・昭和』*3小学館)が加わった。
本書は華族たちが保有していた美術品・茶道具・典籍などが近代に入って「売り立て」と呼ばれるオークションにかけられ、転々としていく様子を、華族社会の構造変化のなかに追いかけたものである。著者の小田部さんは近現代史の研究者だから、叙述はこれまでの研究を踏まえたうえで新たな資料を読み込み結論を求めてゆくという信頼のおけるものとなっている。
どんな華族がいかなる理由でどんな重宝を手放し、どんな人間(華族・実業家ら)がそれを入手したのかといったゴシップ的関心を満足させてくれるのはもちろんだが、私としては、大方の読者には堅苦しい叙述だと思われる「4 華族社会の変動」の章が興味深かった。ここでは、近代における華族社会の変容と「特権」の中身が平易に論じられているからだ。
ひとくちに「特権階級」と言っても、何が「特権」なのか、貴族院議員になれるといったこと程度の知識しかなかったが、本書を読むと、最大のものは「世襲財産」という経済的特権であったことがわかる。華族としての家格を維持するのに必要最低限の収入を確保するため、一定の財産を「世襲財産」に設定すれば、債権者に差し押さえられることがなかったという。華族のなかには、世襲財産という法的保護の上にあぐらをかき、借金をするだけして返さない者もあった。端的に言えば、関東大震災と金融恐慌による不況が華族たちの家計にも深刻な影響を及ぼし、「家宝」が巷間に流出したのである。
「売り立て」にも波があって、「売り立て目録」の分析によりその時期的増減が細かく検討されている。最初期(大正〜昭和初期)のそれは、華族の旧家の重宝が「数寄者」と呼ばれる主として実業家らの新興勢力へと動く流れだった。ところが昭和10年代に入ると、買い手は数寄者でなく、美術館や博物館といった公的機関が多くなる。この数寄者の代表格として取り上げられているのが益田孝(鈍翁)で、彼の手を一度は経た名宝の数々が紹介されている。
没落華族と表裏一体の存在、華族の名宝の受け皿として、益田鈍翁・高橋箒庵・藤田伝三郎らの数寄者・実業家集団がいた。彼らは競って茶道具を蒐集した。近代における茶の湯の隆盛は彼らの活動によるという。
本書を読んで気になった言葉は「成金」。華族の名宝を買い取った実業家の多くはこの「成金」だった。もとは将棋の歩が敵陣で裏返って金になることから名づけられた言葉であり、いまでは誰でも使っている。小田部さんは「その響きにはいささかの揶揄と羨望がとが入り交じっている」として、次のように「成金」という言葉の由来について説明している。

「成金」は近代において使われるようになったことばであり、日露戦争において株式で巨額の富を得た鈴木久五郎がそのはじめといわれるが、一般には第一次大戦で暴利を得た人々を称したことばとして知られる。(140頁)
日本ではこうした“ひと儲けした人々”を「成金」と呼んでなぜ軽蔑するのだろう。原義自体はプラスでこそあれマイナスな意味はないはずだ。アメリカではたぶんアメリカン・ドリームとして憧れの対象になると思うのだが、こんな「出る杭は打たれる」日本社会の精神構造が面白い。
なお現在、徳川美術館尾張徳川家)や永青文庫(細川家)、尊経閣文庫(前田家)といった自前の美術館(収蔵機関)を持つ大名家は、近代の荒波のなか当主の才覚などにより名品を手放さずにすんだ家々である。