ポルトレという方法論
書友ふじたさんが、辰野隆『ふらんす人』(講談社文芸文庫)・ 鈴木信太郎『記憶の蜃気楼』(同前)という東大仏文の教授二人の本を手に入れたことに触れ、「渡辺一夫とか中島健蔵とか、往年の東大仏文科・人物誌にここ一年ほど心惹かれている。これを機に追求できればいいなと思った」
と書いておられる(id:foujita:20041108)。
私の場合ふじたさんとくらべれば、たぶん浅い部分への関心に過ぎないけれど、やはり東大仏文の人物群像への興味がないわけではない。そうした関心から目につくたびに文庫本を蒐めてきた。いい機会なので以下にまとめてみたい。
- 渡辺一夫『白日夢』(講談社文芸文庫)ISBN:4061960776
- 渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』(岩波文庫)ISBN:4003318811
- 大江健三郎・清水徹編『渡辺一夫評論選 狂気について 他二十二篇』(岩波文庫)ISBN:400331882X
- 渡辺一夫『曲説フランス文学』(岩波現代文庫)ISBN:4006020023
- 渡辺一夫『戦国明暗二人妃』(中公文庫)ISBN:4122015316
- 辰野隆『フランス革命夜話』(福武文庫)ISBN:4828831010
- 辰野隆『忘れ得ぬ人々』(講談社文芸文庫)ISBN:4061961152
- 辰野隆『ふらんす人』(講談社文芸文庫)ISBN:4061961403*1
その他、東大仏文の後輩出口裕弘さんによる辰野隆の評伝『辰野隆 日仏の円形広場』*2(新潮社)があり、その出口さんの新著『太宰治変身譚』*3(飛鳥新社)もそんな関心で買い求めた一冊である(言うまでもなく太宰も東大仏文)。
といろいろな本を並べあげたが、いつもの私の悪い癖で、蒐めた段階で満足し止まってしまう。ふじたさんが表明された東大仏文・人物誌への関心に刺激され、これも最近見つけたものであった(→10/29条)今日出海の『私の人物案内』*4(中公文庫)を読もうと思い立った。
今日出海のことで知っていることと言えば、作家、今東光の弟、文化庁長官という程度だった。今さんも東大仏文卒で、同級に小林秀雄・三好達治・中島健蔵、一級下に佐藤正彰・武田麟太郎という錚々たる顔ぶれが名前を連ねているのだ。本書はそんな東大仏文の友人たちとの交友記をはじめとする回想録・人物論(ポルトレ)で成り立っている。
たとえば「辰野門下の旦那たち」では、同門の小林秀雄・渡辺一夫・中島健蔵・三好達治・佐藤正彰・河盛好蔵・桑原武夫・井伏鱒二・鈴木信太郎のポルトレが、それぞれ文庫本数頁程度の分量のなかでまとめられている。その人物の特徴をあらわすエピソードを的確に選び出し鋭い切り口で短くまとめあげる手際のよさは一級品でほれぼれする。文章もユニークで対象に暖かいまなざしが注がれている。
東大仏文群像だけでない。鎌倉住まいの作家として、鎌倉文士仲間のポルトレ「鎌倉の紳士たち」、さらにその夫人たちを描いた「鎌倉夫人」も絶品だ。前者のうちから、こんな久米正雄の肖像はどうだろう。
久米さんの顔は審美的規範を別にして、一度見たら忘れられぬ覚えやすい顔である。どんな人混みの中にいても、久米さんがいるとたちまち判る。禿げ上った額、長方形の輪郭、名前と顔があまりにくっついて、顔に表札をつけて歩いているようだ。(63頁)もう一つ紹介したいのはサトウハチローのエピソード。
「あなたと呼べば、/あなたと答える、/山の木精の嬉しさよ。/あなた、/何んだい/あとは知らない/二人は若い」の歌詞が意味不明だと今さんに詰め寄られての回答。
君はイエーツを知らんかね。木精という詩! 上田敏か誰かが訳していたのを昔読んだことがあるんだ。あなたと呼ぶとあなたと答えるッてあったんだが、あとは思い出せねェんだよ。だから正直にあとは知らないと白状して、二人は若いとつけ足したところが、俺のオリジナルだよ。(141頁)このくだりは読んでいて思わず噴き出してしまった。その他新婚当時師の辰野隆から新橋の花街に連れていかれ、呑んでいるうち帰りたくてもじもじしてきたら、今度は同じ仏文の山田珠樹が現れて今度は赤坂に連れて行かれ、結局朝帰りとなってしまったあと、山田がこれは女房教育の一環だと訓示を垂れた話(「教育者辰野隆先生」)など、印象的な挿話に事欠かない。
林秀雄さんによる文庫版解説によれば、今さんは
「日本では作品を通じての人物論はあるが、という問題意識から意図的に本書にまとめられたような人物論=ポルトレを書いたのだという。肖像 は描かれなかつた」「日本では余り伝記文学が書かれてゐない。これは史実に興味がないのではなく、人間に興味が薄いからではあるまいか。作家研究にしてからが作品批評はあつても、作家その人生涯と性格に肉薄してゐるものは極く稀である」
本書に取り上げられている人物像が精彩に富んでいるのも、描き方が鋭いのも、こうした方法論に自覚的ゆえだったことがわかるのである。
【追記】
上記に引用したサトウハチロー作詞の唄のタイトルは「二人は若い」であり、作曲は古賀政男、唄ったのはディック・ミネと星玲子。引用部分は三番のようだ。ただ三番の歌詞は
「あのネと呼べば あのネと答える/山のこだまの やさしさよ/あのネ なにさ/あとは言えない 二人は若い」が正確なようである。なお玉川映二作詞という説もあるらしい。私でも歌詞を読むとメロディがすぐ頭に流れるような有名な唄である。
※参考サイト
→http://www.owasechojuen.or.jp/karaoke/shi/06s-ha/03hu01-hutariha-wakai.html