映画の情報整理学

映画を見ればわかること

川本三郎さんの新著『映画を見ればわかること』*1キネマ旬報社)は、『キネマ旬報』連載のエッセイをまとめたものだから映画の話題が中心となっている。ただ私のようなバリバリの映画ファンではなく、でも川本ファンであるという人間にとって、本その他の話題にも言及されているから躊躇なく買うことができた。『美しい映画になら微笑むがよい』(中央公論新社)はいまだに買えずにいる。
映画と言っても、座標軸にたとえてみれば、洋画⇔邦画という軸と、現在⇔過去という軸をX軸Y軸として設定した場合、いまの私の関心は邦画・過去という象限(ああ、懐かしい)に局限される。だから本書は、いくら川本ファンの私でも、自分の関心のストライクゾーンをついたものではなかった。でも古き日本映画についての話、本についての話など、川本エッセイを読む楽しさは味わえたしし、本書を読んだことがきっかけで、映画座標の別の象限へ関心が及んでゆくのではないか、そんな予感を抱きはじめた。
川本さんの『映画の昭和雑貨店』シリーズ(小学館)をパラパラと眺めているときにも感じ、以前書いたこともあるような気がするが、川本さんは見た映画の情報をどのように整理しているのだろうか。カード化しているのだろうか。本書を読んでまたこんなことを考えた。
ある映画のワンシーンを見て、あるいはある本を読んで、別の映画の同じようなシーンを思い浮かべたり、そこで使われている共通の小道具、共通の仕草、風俗などを取り出してくる。人間の記憶力には限界があるだろうから、何らかのかたちでメモが集積されているに違いなく、思い出したとしても、活字にする以上は評論家としての責任があるからビデオなどで確認するだろう。それにしても、あの映画この映画と共通するイメージを取り出してくる川本さんの抽斗の多さには驚かざるをえない。
そして、そんなあれこれを並べ立てているときの川本さんの筆致が実に生き生きしていて、その喜びが読者にも伝わってくるのだ。「これについてはこんな映画もあるよ、ついでにあんな映画もあるよ」と、共通の趣味を持った友人たちと尽きぬお喋りをしているかのごとく、川本さんの奔流のような映画談義はつづく。
川本さんの映画エッセイに特徴的なのは、とくに女優を語るときの語り口。ある映画のワンシーンを紹介するとき、たまにその女優の名前のあとに(可愛い!)とか(きれい!)といった「!」マーク付きの合の手が入る。これもまた川本さんの映画に対する愛着のあり方を示していて面白い。
本書を読んで印象に残ったのは「ワイラーのこと、和田誠さんの映画の本のことなど」で書かれている次のエピソードだ。本を媒介にした素敵な出会い。

和田誠さんから、『和田誠鉛筆映画館』(HBギャラリー)を送っていただく。鉛筆画(珍しい)に文章が添えてある品のいい映画の本。井の頭線の電車のなかで読んでいたら、向いに座っていた可愛い女の子が、渋谷駅に着いたところで、遠慮がちに「すみません、その本、どこで手に入りますか」と聞いてきた。(191頁)
また、木下惠介監督の追悼文「追悼・木下惠介 「時代」の終りを見つめる悲劇」では、木下作品が現代ではまったく評価されないことについて、新美南吉の童話「おじいさんのランプ」を引きあいに出して興味深い考察を行なっている。「おじいさんのランプ」とは、「ろうそくに替わる文明開化の光、ランプの出現に驚き、ランプ売りになった若者が次に電灯という新しい文明が登場した時に、時代から寂しく退場せざるを得なくなる」という物語で、これを借りて日本映画の名匠5人を次のようにたとえる。
木下惠介はあのランプ売りの若者に似ている。時代と共に生きているつもりだったのにいつのまにか時代から置き去りにされてしまっている。小津安二郎のように電灯の時代になってもあくまでもランプを売るという徹底した懐古趣味はないし、黒澤明のように、それなら次は電灯だとまっしぐらに前進する強さもない。溝口健二のようにそもそもランプより行灯のほうがいいという居直りもない。あるいは、成瀬巳喜男のように、ランプが駄目なら仕方がない、次は細々と電球を売るかという諦念もない。(332-33頁)
私は「なるほど、お見事」と感心するしかないのだけれど、こうした比喩は、映画ファンの方はどのように思われるのだろう。ぴたりと的を射ているのだろうか。