戸板康二の女学校教師時代

才女の喪服

戸板康二さんは戦中の一時期女学校の教師をしていたことがある。その頃の思い出はいくつかのエッセイに書かれているが、いまこれというものを示すことができない。当面、その時期前後の戸板さんを語るうえで必須の文献である回想録『回想の戦中戦後』青蛙房)によりたどってみたい。
勤務校は京王線仙川駅(現調布市)近くにある山水女学校。それまで明治製菓の宣伝部でPR誌『スヰート』の編集に携わっていた戸板さんは、開戦後宣伝部が縮小されたため、工場の納品係に転属となってしまう。ソロバン仕事が苦手な戸板さんは師折口信夫に泣きついたところ、この学校の教師の口を紹介されたのだという。勤務したのは昭和18年の二学期から翌年の一学期までのわずか一年間だった。科目は国語で、「むしろ楽しかった」とその頃をふりかえっている。

ただ数えで十五か十六という、心身とも何かとむずかしい年ごろの女の子をあずかっているのだから、教壇以外の場所で、個人的にいろいろな相談を受ける。メソメソする子もいた。(「つとめた職場」)
在職はわずか一年に過ぎないのだが、若き戸板先生(当時28歳)は女学生たちの相談にのってくれるお兄さん的ないい先生だったのだろう、たしか他のエッセイでは、そのときの教え子たちと連絡を取り合っているようなことが書かれてあったと記憶する。『回想の戦中戦後』口絵には、生徒たちと一緒に撮られた集合写真が掲載されている。戸板先生は体操服の生徒たちに囲まれ、彼女たちと同じように体操座りで最前列中央にいる。
ところで先日、ネット古書店で久しく探していた中村雅楽物の初期短編集『奈落殺人事件』(文藝春秋新社)を入手し、戸板さんのミステリ小説本は再編集物を除けばすべて集めることができた。すべて揃ったという安心感も手伝って、読み残している小説を読んでいこうという気になり、さっそく前から気になっていた長篇ミステリ『才女の喪服』*1河出文庫)を読むことにしたのである。
戸板さんの長篇は3作あって、うち2作は雅楽物。この『才女の喪服』のみ、戸板さんのホームグラウンドといってよい歌舞伎・演劇とは無縁の世界が舞台になっている。長篇ではかつて『松風の記憶』*2講談社文庫)を読んだことがある。私は戸板さんは短篇作家だと思っていたから、長篇をあまり期待せずに読み始めたのだが、意外に惹き込まれ、さすがだと思った記憶だけかすかに残っている。
本書『才女の喪服』もやはり同様の印象を受けた。文庫版解説の山前譲さんは、「戸板氏の長篇は比較的けれん味の少ない淡々とした仕上りの作品であるだけに、地味であることは否めない」とするいっぽうで、「しかしながら、本格推理の骨格をきちんとそなえ、かつ文学的な味わいも含ん」でいるとして、本書を高く評価する。まさにそのとおりで、犯人捜しや意外性・どんでん返しとの妙味には乏しいものの、ラストにひとひねり加え、それに至る伏線も巧妙に張りめぐらせてあるという仕掛けをほどこすなどのサービスもあり、論理的構成力に富み本格物の味わいにすぐれた佳品であった。
まだ農村的風景が残っていた自由が丘辺をモデルにした古い地主の屋敷が事件の舞台になるという地理的興味に加え、詩の同人誌をひとつの軸にした詩人とその友人たちの複雑な人間関係が絡んで物語が進む。人物が複雑に入り組み頭が混乱しかけたため、はじめの数章を読んだところであわててメモ用紙に人物相関図を作成したほどだ。
そして女性主人公の仕事が、「東京北郊」にある福水女学園という女学校の国語教師なのである。すでに解説の山前さんも指摘しているが、この福水女学園を中心とした女学校・女学生の描写は、戸板さんの山水女学園時代をモデルにしていたに違いない。事件は三分の二ほど読み進まなければ発生しないのだけれど、そこに至るまでの登場人物の細やかな感情の起伏と複雑な人間関係の描写、および女学校の描写を読むだけで、戸板ファンとしては満足なのだった。
たとえば学園生活のこんな具体的な一齣は教師生活の経験にもとづくものに違いない。
そういう生徒は、自分は初山先生(登場人物の一人―引用者注)のペットだと思っていて、「タコ」だの「ポチ」だの「クロ」だの「ミケ」だのと、尋常でない愛称で呼ばれることを、内心では同級生に誇っているのだった。
幸子(上記初山先生の名前―引用者注)のつけるニックネームは、おもに、生徒の姓をもじったものであった。タコは須田ふじ子という三Aの子で、スダコから来ている。ポチは越智さだ江という一Cの子で、越智がポチになったのである。(41頁)
このあたりの洒落をきかせたネーミング・センスは戸板さんならではのものかもしれない。また次の文章も教師でないとわからない実感のともなった描写だ。
教師が教壇に立っている時、自分の顔をじっと見つめながらうなずいている生徒を見ると、それは、たとえようもなく、いい感じのものである。たとえ、理解してはいないとしても、うなずいて聞く子には、それだけでいい点を与えたくなるくらいのものなのだ。(85頁)
本書は詩人の世界を描き、詩が物語のなかで重要な役割を果たすという内容だけに、物語のなかにいくつか詩が引用されている。「引用」とは言うものの、山前さんによればこれらはことごとく戸板さんの自作で、「詩を作るのも苦手でした。時間もかかったし、苦しい作品でした」という作者インタビューの一節が紹介されている。戸板さん自作の詩が読めるという意味でも、貴重な作品だと言えるだろう。
最後に、女性主人公がつぶやいた、本書のタイトルにもかかわる名文句をひとつ。
結婚は式服から喪服への歳月なのかも知れない。(119頁)