気散じ文学論

三文役者の無責任放言録

服用すると霧が晴れたようにすっきりと痛みがとれてしまう頭痛薬や胃薬にひとたび出会おうものなら、ちょっとの痛みでもその薬に頼りがちになる。それを繰り返しているうちに薬の鎮痛効果は薄れ、元の木阿弥に。軽度の薬物中毒、薬物依存症と言っていいかもしれない。
読書においてこうした薬物中毒的な作用を期待するのも考えものである。私の能力ではとてもこなせないような雑用がふりかかってきて鬱屈する日々が続いており、こんな状態があと半年以上も続くことがわかっているから、やりきれなくなってくる。
そんな状態のいま、行き帰りにたまたま殿山泰司さんのエッセイ集『三文役者の無責任放言録』*1(角川文庫)を選んだところ、最初に述べた薬のような効果があって、なかば戸惑っている。この本を読むと日頃の鬱屈が嘘のようにとれてしまうのである。
先日の京都出張で立ち寄ったブックオフで偶然見つけ、このときの一番の収穫とほくそ笑んだ。もっともその後、本書が近年ちくま文庫に入った*2ことを知った。自分の目に触れる機会も十分あった(たぶん新刊時手に取ったかもしれない)のだから、私の殿山泰司さんに対する認識はその程度のものなのである。以前読んだはずの『三文役者の待ち時間』*3ちくま文庫)も、ほとんど内容を憶えていないというていたらく。
『三文役者の無責任放言録』の話に戻れば、本書が処女作らしい。1962年から65年まで『漫画読本』誌に連載された文章をまとめたものだから、すでに40年も前の文章だ(角川文庫に入ったのは1979年)。「あとがき」では「本を出すなぞとは夢にも思わなかった。人生とは判らんもんだ」とあり、また、第一回の「オレは食事をケイベツする」では、次のように書き起こす。

オレみたいな昔の中学を中途退学した、教養のない悲しい三文役者に、文章を書かせてくれると言う。これは世の中がどうにかなってるんじゃないのか。もっともオレの住んでるニッポン自体がどうにかなってるんだからかまわねえかな。
本書の元版を三一書房から刊行した当時の編集担当だった井家上隆幸さんは、本書を「〈昭和饒舌体〉とよばれる文体の先駆者」と評している。たしかにそのとおりで、上で引用したような、語りをそのまま移したような奔放自在な文章を読んでいると、まるで酒場で話を聞いているかのような錯覚におちいる。そのいっぽうで、酒飲みの独白のような最後の一篇「河原林の《悪党》」には詩のような味わいがあって余韻を残す。まったくもってすごいエッセイだった。
毎回酒を飲む話が出てくる。たいてい「ガブガブと飲む」という紋切り型を使っているのだけれど、とてつもなく芳醇で美味な酒を飲んでいるかのようなイメージを受けるのはなぜだろう。飲み手の殿山さんのほうは、ガブガブと酒を飲み過ぎたせいで、持病の糖尿を悪化させ入院を余儀なくさせられる。この間の日記「いけがみ日記」や、退院後断酒を強制させられたときの「断酒亭日誌」が面白い。「饒舌体」で綴られた大半の文章とは異なり、入院時の読書記録などが淡々と書きとめられているからである。
殿山さんの本好きは知られているが、入院中石川淳の『荒魂』や大宅壮一吉行淳之介の本を読んだり、また映画ロケのため開業したばかりの新幹線で移動中大内兵衛の『マルクス・エンゲルス小伝』を読んだり*4、この人の勉強ぶりは並々ならぬものがある。
その他、鎌倉の小津安二郎邸に舶来のウイスキーを飲みに出かけ、飲み尽くして泥酔したすえに嫌味を言われた「酒は金をかけずに飲むべし」、毎日映画コンクール主演男優賞を受賞したときに小沢昭一さんら役者仲間が開いてくれたパーティを活写した「悲しき祝賀パーティ」、哀切きわまる川島雄三の追悼文「小さな《川島雄三伝》」、乙羽信子への熱いオマージュ「乙羽信子抄論」などが読ませる。
この素晴らしく毒のある、いや、絶大な気散じ効果のある著者の本は一度に読み漁ると中毒症状を呈して効果が薄れてしまうかもしれない。とりあえず殿山さんの本を集めるだけ集めて、ここぞというときに読む本にしたい。『三文役者の待ち時間』を読んだときは心身ともに平和な状態だったのだろう。何だかもったいないことをした。

*1:ISBN:4041542030

*2:ISBN:4480035818

*3:ISBN:4480038051

*4:「チャンと読まなければイケナイ本を、小伝で間に合わせようという根性が情けねえ。しかしこの小伝は有益なり」と感想が書かれてある。