堀切直人のスタイル

本との出会い、人との遭遇

堀切直人さんの新著『本との出会い、人との遭遇』*1(右文書院)を読み終えた。
書友やっきさんから、本書には種村季弘さんが多く登場するということを教えてもらい、興味を持ったのである。読んでみると本書は、本が好きになった中学生時代から始めて、自らの書物との関わりをふりかえった自伝的回想エッセイであった。横浜は鶴見で生まれ育った堀切さんの少年時代、古本屋通い、早稲田の大学生時代、編集者時代を経て現在に至るまで、仕事を通して出会った本や人が鮮やかに描き出されている。乱歩体験や、昭和30年代は夢野久作の『ドクラ・マグラ』は幻の書だったという証言はなかなか興味深い。
巻末の著作一覧を見ると、私が堀切さんの本に熱中していたのは、大著『日本夢文学志』が沖積舎から復刊された1990年から、金子光晴論が印象深い『日本脱出』(思潮社)、評論集『ヘルメスは自転車に乗って』『目覚まし草』が刊行された翌91年にかけての頃で、もちろん種村さん(もしくは『幻想文学』誌)経由で堀切さんを知ったのだと思う。これらすべて購入したはずなのだが、いま手元に見あたらない。処分してしまったのかもしれない。
本書の半分ほどは『週刊読書人』に連載され、残り半分は書き下ろしであるとのこと。私は編集者時代の前半部(と武田百合子村松友視色川武大らとの交友を記した書き下ろし部分のはじめのあたり)が好きだ。とりわけ大岡昇平色川武大との交友記は編集者・一読み手と作家が出会うときの繊細な感情の動きがリアルに伝わってきて面白い。
読んでいくと、堀切さんは自分のスタイルを変えない人なのだなということがわかる。スタイルをかたくなに守りとおし、文芸評論という自分の仕事に真摯に向き合っている印象も受ける。
堀切さんには、“熱狂癖”のようなものがあって、種村さんをはじめ、ひとたび自分の好みにはまったらその人物にとことんまでのめりこむ性向を持っているようである。種村さんの映画評論を一読して以来、種村さんに傾倒し、書くものも種村さんの影響を受けたというし、現在で言えば、年少ではあるが坪内祐三さんを高く買っているようだ。ただ、本書後半部にいくつか収められている坪内さんに対する激賞の文章のトーンが高く、多少辟易してしまう。
熱狂癖と背中合わせで、一度好きになった人でも自分の考え方と合わなくなれば袂を分かつような狷介さも持ち合わせている。本書でも、一時は交友があった片山健川本三郎池内紀・関(日+廣)野各氏と交際を絶ったことが記されている。私淑する唐十郎さんとも一時期離れていたという。これも自らの信条を決して変えないというスタイルと無関係でないだろう。
種村さんに対してすら、晩年悠々自適で好きな本の翻訳や「温泉エッセイ」を書いていたことに批判的で、湯河原に転居したことを「都落ち」と手厳しく表現する。これは、「種村さんが向島あたりのマンションに住んで、そこから隅田川を渡って浅草で飲んだり、あるいは東海道方面を旅行して回ったりする生活スタイルを採った場合」「画期的な東京論を書いたであろう」ことを惜しんでの発言だ。救いなのは、この種村さんに対する評言からうかがえるように、袂を分かった人を罵るようなことを書く人ではないことである。
本書を読んでいたら、武田百合子さんの本を読みたくなってきた。ちくま文庫の武田さんの著作は刊行時買って読んでいるのだが、なぜかあまり肌が合わず、多くの人が賞賛する理由がわからないでいた。ところが本書に引用されている武田さんの一文「“物食う男”の巨きな繭」を読んだら頭の中にすっと入ってきて、思わず書棚から武田さんの『ことばの食卓』*2ちくま文庫)を取り出してきてしまった。
池内さんや川本さんと絶縁したいっぽうで、海野弘さんとの付き合いは細く長く続いているという。交友記「海野弘は尻尾をつかませない」は、海野さんのポルトレ=海野弘論として卓抜なものであると思う。海野さんは尊大な、権威主義的な面が見られないとし、次のように結んでいる。

ジャーナリズムのただなかにいながら、業界の動向や世評に惑わされず、徒党を組まず、いつもひとりで、その辺に落ちている石ころを拾ったり眺めたりして飽きることない少年のように、足まめに歩き回って、自分の目ですべてを見て確かめている人。(224頁)