沈黙と合財袋

駅/栗いくつ

よく人から無口だとか寡黙といった褒め言葉とも嘲りともとれるお言葉を頂戴する。自分をおしゃべりとは思わないから、いちおうプラスの意味合いが込められたものと受けとめるようにしている。
この間出張先で同僚数人と飲んだとき、いくら無口とはいっても、腹にたまった憤懣をこういう酒席でぶちまけないと身体を悪くするよ、といった忠告を受けた。そんなに憤懣がたまっているように見えるのだろうか。もちろんありがたい忠告なのだが、家に帰ればぶちまける相手がいないわけではない。むしろ無口のくせに余計なことはしゃべりすぎると家人に叱られることすらある。
それに憤懣がたまったら古本屋に行ったり、散歩をしたり、映画を見たりと発散する方法は知っている。今日も仕事をさっさと片づけ、高峰秀子特集で上映される成瀬巳喜男監督の最高傑作「浮雲」を見にフィルムセンターに駆けつけた。ところが、開場30分前に入ったにもかかわらず、先日満席になって驚いた「雁」並みの大行列に圧倒され、まだ多少の余裕があったようだがすごすごと引き返した。そのためかえってフラストレーションがたまってしまったではないか。「雁」は土曜日だったからわかるが、今回は平日だよ。バカヤロ。さすがに「浮雲」だ。来年の成瀬特集でも上映されるだろうから、その時に見ることにしよう。チクショウ。
あれれ、何だか文章がおかしくなった。これは日常の憤懣、映画を見ることができなかった不満がそうさせたのではないよ。たぶんいま殿山泰司さんの本を読んでいるから、その文体が伝染してしまったものとみえる。
さて、気を取り直して、話題を無口の話に戻す。幸田文さんの『駅/栗いくつ』*1講談社文芸文庫)を読んでいたら、無口なこと、憤懣があっても沈黙を守ることの「徳」について、実に含蓄のある文章に行きあたり、深い共感をおぼえた。
このなかの一篇「町はずれ」には、腹が立つことを「ねかせる」のが得意な便利屋のおじさんが登場する。その妻は逆に威勢のいい人だった。おじさんが亡くなったあと、便利屋を自然継ぐかたちになり、性格も亡夫に似てきたおばさんはこう述懐する。

あっちで見て来たこともこっちで聞いて来たことも、胸のなかへ畳んでしまっちまうんですね。そして便利屋のしごとに入用なときだけ思いだして、あとは決してお茶うけの話の種にはしないんですよ。いえ、そうじゃありません。便利屋のしごとの都合だけで黙ってるんじゃなくて、そういうストックがあると腹が立ったときに我慢しやすいような気がするんですよ。ね? あの人にそっくりでしょ。立った腹をねかせる名人だなんて云ってたでしょ?(51頁)
日頃の憤懣ばかりでなく、日常的な見聞を人に話さずストックしていれば、腹が立つことがあっても相対化され鎮まるものなのだろうか。そんなこんなのことどもをストックする場所を、別の一篇「裏庭の回想」では「合財袋」とたとえられている。
そのころから私は胸にもやもやを溜めはじめました。胸という合財袋は口も広いし、底も深うございます。ここへものを溜めはじめようと決心すると、われながら驚くほど詰めこめます。(76頁)
ところが胸という合財袋にも限度がある。
黙っているというのは変なものです。何でもかでも胸の袋へほうりこんでいると、私は袋の重みなど感じませんが、きっと袋は自然に重さを持つでしょう。そしてその重さが沈黙している私に一ツの方向を与えるんじゃないでしょうか。黙っているうち私の心にかたまってきたものは、いまに何かの折が来たらそのときはみんな一緒にしてしゃべってやろう、ということでした。(77頁)
いま引用紹介した「町はずれ」「裏庭の回想」はいずれも連作的随筆「駅」の一篇である。「駅」はいちおう連作的随筆という建前だが、実際読んでみるとこれは小説と言っていい。解説の鈴村和成さんも書いているが、この作品は「小説と随筆の、即かず離れず、目には見えない流れのうちにある関係を、実地に呈示」するような境界上の性質を持つものであり、いずれにしても読みながらわが身を省みるきっかけを与えてくれたものではあることは間違いないのである。
私の合財袋はすでに自然な重みを持ち、いずれ沈黙する私に一つの方向を与えてくれるのだろうか。いや、でも合財袋に詰めこむ前にウェブでこんなことを書いているのだから、それをして沈黙とは言えないだろう。まだまだ私の合財袋は軽そうだ。