お見事!

十二人の手紙

ここ一週間ばかり、私の読書生活ははっきりと二つの傾向に固着してしまっている。ひとつは、昨日(30日条)一昨日(29日条)および出張前の24日条に書いた山口瞳さんの流れ。いまひとつは、出張中に読んだ北村薫さんの『ミステリ十二か月』*1中央公論新社、28日条)に影響された流れである。購入本でも書いているように、ここ数日、北村さんの本で取り上げられていた本を買ってしまった。
このなかでもっとも読書欲を掻きたてられていた井上ひさしさんの『十二人の手紙』*2(中公文庫)を読み終えた。80年に文庫化されて以来14刷を重ね、なお品切にならず新刊書店で入手可能なのだから、やはり世評が高いということなのだろう。
私はミステリは好きだが、わけても、妙な言い方だが「ミステリミステリしていないミステリ」に惹かれる性向を持っている。どういうことかと言えば、本書のごとく、ミステリ作家でない人が書き、しかしミステリの趣向を持った、そのうえでミステリ小説を超えるような質の高い内容の小説が好きなのである。だから北村さんが『ミステリ十二か月』で本書を紹介した一篇「「空間」感じとる喜び」を読んだ途端、ウズウズしてきてしまったのだった。
本書は全13章から成っている。各章の登場人物はバラバラで、それぞれが手紙(もしくはそれに類する文書)だけで成り立つという趣向をもつ。手紙をメインに据えた連作短篇集とも表現可能だけれど、これは長篇と言うべきだろう。本好きの書友各位に本書の面白さを訴えたくて仕方ないのだが、これ以上説明するとせっかく井上さんが本書に仕掛けた趣向を暴露してしまいかねない。私をして無性に読みたくさせた北村さんの紹介文を借りて逃げることにする。

この短編集『十二人の手紙』には、本格ミステリの形をとっている部分があります。おかげで遠慮なく紹介できます。それが、とても嬉しいのです。多くの人に読んでもらいたい傑作だからです。
手紙や文書は、作中人物それぞれの人生の流れの、ある一点を示しています。短編ですから、数は限られます。読み手は、飛び石を踏むように、それらをたどります。その結果として、石と石との間の、書かれていない空間を自分の胸で感じとることになります。
この本では、見事に配置された手紙が、それらの間や前や後に広がる、底知れない闇や、気高く広がる空を感じさせてくれます。
構成の素晴らしさは、作品集全体についてもいえます。一番最後の章で、登場人物たちのその後を知ることができます。それによって読者の「思い」は、さらに深まるのです。面倒がらずに、丁寧に確認して下さい。
このとおり。お見事、参りました、と頭を下げたいほどの素晴らしい切れ味と奥深さをもった小説だった。これは紹介しても本書の趣向を暴露することにならないと思うが、たとえば「玉の輿」という一篇では、掲げられている13通の書簡のうち、11通が既往の「手紙の書き方」といった文例集からの引用で構成されている。むろん固有名詞は変えているのだろうが、それだけでひとつのストーリーが成り立ってしまうのだから恐れ入る。日本の手紙文例集というジャンルに対する批評にもなっているわけである。
また、二つ目の引用文に関しては、「赤い手」がその究極のかたちだろう。主人公に関係する出生届や死亡届といった無味乾燥な公文書(ないしそれに準ずる文書)のみが淡々と列挙されるだけなのだが、それだけで十分「書かれていない空間」をイメージさせてしまう手際の素晴らしさ。
解説の扇田昭彦さんは、井上さんを「趣向家」と呼ぶ。小説に仕掛けをほどこし、読者をして驚かせ喜ばせる書き手に贈る最大級の賛辞である。私も同感だ。以前どこかで書いたが、私が好きな小説の「趣向家」には、井上さんのほか、小林信彦さん、筒井康隆さん、丸谷才一さんがいる。趣向家四天王とでも呼んでみようか。そういえば、四天王それぞれに、私好みの「ミステリミステリしていないミステリ」作品があるのも共通している。雨もよいの週末、小説を読む喜びここにありという至福のひとときであった。