名文を書かせる人

山口瞳の人生作法

“ヤスlog”の10/27条(id:yasulog:20041027)に対するコメントとして、“読書日記@川崎追分町”のid:kokada_jnetさんが山口正介山口瞳について書くときだけ、名文なんですよ、残念ながら」と書いておられる。私は山口正介さんの著書は、そこでもあげられている『ぼくの父はこうして死んだ―男性自身外伝』*1(新潮社)しか読んだことがないから*2、この評価について賛成も反対もできない。ただ、「なるほどなあ」と一つ考えることがあった。
ここにきて『旦那の意見』『家族ファミリー』と続けて山口さんの著書を読んできたのは別に深い意図があったわけではない。まったくの気まぐれで手に取ったにすぎない。
以前目にしていた文庫新刊情報をすっかり忘れていたのだが、ちょうど『家族ファミリー』を読み終えたあたりに、新潮文庫の新刊として出た山口瞳の人生作法』*3に接したものだから、余勢を駆ってそのまま読み始めた。
本書は巻末の初出一覧等を見ると、もともと『サントリー・クォータリー』51号の追悼特集をそのまま単行本化した『この人生に乾杯!』(TBSブリタニカ)に、その後発表された山口さんに関する文章(川上弘美さんや重松清さんのエッセイ)を加え文庫化したもののようだ。
私は初出誌を古本で持っている。書友やましたさん・やっきさんとの江古田古本屋めぐりで、たしかやっきさんに見つけていただいたのではなかったか。でも読んでいなかった。『この人生に乾杯!』はゾッキ本や古本としてよく見かけるが、単行本化の経緯を知り、初出誌を持っているから必要ないと判断し買っていない。前記ヤスlogでは、肝心の著作を品切にしておきながら、こうした脇筋的なものを文庫化することに批判的意見が述べられていた。これに賛意を表するが、本書の文庫化のみを考えれば、こうした「山口瞳読本」の定番ともいうべき本が文庫に入ったのは価値がないわけではない。
さて先に「「なるほどなあ」と一つ考えることがあった」と書いた。どういうことかと言えば、私は『山口瞳の人生作法』を読んで、kokada_jnetさんの発言を次のように敷衍できるのではないかと考えたからだ。すなわち、“山口瞳のことを書くと誰でも名文になる”ということである。本書に収録されている諸家の文章は、山口瞳という人物のことを回想していずれも素晴らしい名文ぞろいなのでため息が出てくる。たとえば丸谷才一さん。

同様に山口さんは、スターであり、名物男ではあるけれども、しかし何よりもさきに、まづ、妙に愛嬌のある人で、何をしても許される人だつた。許さない人もゐるかもしれないが、わたしはその種族に属さない。わたしは山口さんが好きだつた。(「山口瞳さんのこと」)
ちなみに私は「何をしても許される人」という人はご免蒙りたいという人間である。なるべくなら付き合いたくない。でもそれを大っぴらにできず、大勢に追従して笑って見逃してしまうから、そんな自分が許せない。
まあそんなことはどうでもいい。次に常盤新平さん。
無頼と市民とが渾然一体となっていたのが山口瞳という作家だったと私は思っている。無頼であって、あれだけ市民である人はいなかったし、市民であって、あれだけ無頼である人もいなかった。だから、私にとっては凄い作家なのである。(「山口瞳と私」)
さらに天野祐吉さんは、山口さんの性格の特徴を次の二点に要約する。「一生けんめいのヤツには一生けんめいこたえてやろうという世話焼き精神。それは、世間のナアナア主義に対する「反骨精神」でもある」という点と、「親切が押しつけに見えないようにしたいという江戸前の美意識。それは、ロコツを嫌う「はにかみのセンス」でもある」という点である。
前々から感じてはいることで、10/24条で書いたことと矛盾するかもしれないが、こんな文章を読んでいると、おこがましいことではあるが、自分は山口瞳さんのセンスに近しい価値観を持っていることを感じ、言いようのない親近感をおぼえる。むろん私は粗野な東北人であるから粋な江戸前のセンスに乏しく、また客観的に見れば常識的な市民からはほど遠いぬるま湯につかっており、当然無頼とは無縁である。
山口さんの文章、もしくは山口さんについて書かれた文章を読むと、決まってわが身を省み、人生の軌道修正ができるような気がするのであった。

*1:ISBN:4103906030

*2:父のことを書いた小説集『親子三人』、およびたぶん父とは無関係の小説集『麻布新堀竹谷町』は持っているものの未読。

*3:ISBN:4101111359