折り畳み傘不所持の論理

旦那の意見

山口瞳さんのエッセイ集『旦那の意見』*1(中公文庫)を読み終えた。
ここにまとめられたエッセイ(山口さんは「随筆」とする)は、文壇デビューから15年ほどの間にいろいろなところに発表された文章を集めたものである。『男性自身』とほぼ並行しているという。『男性自身』のように毎回定められた分量で自由な内容のものとは違って、分量もまちまち、内容も発表媒体に応じたものであったり(たとえば全集の月報など)、編集者の要望に即したものだったりする。ではあるが、やはり山口さんは山口さん。書かれている内容の底に流れている考え方は不変である。だから、面白い。
初出一覧好きとしては、こうした寄せ集めエッセイ集に初出一覧がないことに苛立たしさを感じた。ところがこれは編集側の問題ではなく、山口さんご自身の見識にもとづくものであることがわかって納得した。過去15年間に書かれ、著者が気に入っているものを集め、排列も任意、文章中に出てくる「今年は…」といった表記にもあえて注を付さない。書かれた時期といった時間的(大げさに言えば歴史的)背景を消すことも戦略のひとつ。だから初出一覧という余計な情報もあえて省いた。そうきちんと説明してもらえれば、初出一覧好きとしてもこれにこだわらない。
本書の白眉は、なんといっても末尾の「下駄と背広(私小説田中角栄論)」だろう。ロッキード事件による逮捕後に書かれたこの文章は、田中角栄と自らの父の像を重ね合わせながら、また、自分の若き頃の生活をふりかえりながら、愛憎入りまじったとても複雑な心境のうえに書かれている。
背広を着て靴下を履き、それに下駄をつっかけて自邸の庭にたたずむ田中角栄の写真を見て、山口さんは「胡散臭さ」を感じ取る。胡散臭さを直感的に嗅ぎ取る本能は自らの生い立ちと無関係ではない。
戦後まもなく山口さんは目白の高台にある小さな出版社に勤めた。その社屋の窓から見える洋館に住んでみたいという夢を抱く。

そこには、木造二階建ての、白っぽい、広大な洋館が建っていた。広大な家に違いはないが、私の目には、むしろ、瀟灑なという印象が強かった。広大な家であるのに、その広大さを感じさせないのが憎い。なんとも感じのいい、洒落た洋館だった。私は、後にも先にも、こういう感じの洋館を見たことがない。(266-67頁)
そんな憧れの洋館を買い取ったのが角栄であるというオチがつく。しかもその洋館は田中邸の一部に過ぎないという。その敷地にある池で、「下駄と背広」で写真に写るセンスに嫌悪感を感じる。卑俗さと紙一重にある、何とも考えさせられる文章であった。
山口さんの人間に対する観察眼とその描写力は、「追悼文」というかたちをとるポルトレにもっとも顕著に発揮される。本書でも、三枝博音川端康成梶山季之内田百間に対する人物論がとりわけ目立つ(このなかに「下駄と背広」も含めていいだろう)。
内田百間を論じた内田百間小論」は、内田百間という人物とその作品世界の秘密の深部をえぐったすぐれた論考であると思う。山口さんが百間の通夜で百間邸を訪れたときの思い出。
まだ通夜のはじまる前の明るい自分で、玄関で頭だけさげて失礼した。私は通夜にうかがうような間柄ではなく、香奠を持っていっただけなのであるが、そのときの気持は、何かお賽銭をあげるような、どうしてもこれまでの見料を支払わなくてはいられないような、妙な気分だった。(185頁)
内田百間という人物の存在感、そして百間と山口瞳の関係というものがこの文章のなかに見事に凝縮されているような気がして絶妙である。
本文庫版は新装版だが、あらたに一人息子の山口正介さんの解説が付いた。この解説も読ませるもので、冒頭に紹介されている父山口瞳の信条(生き方と言い換えてもいい)の一つに、「折り畳み傘を持たない」というものがあったという指摘にはハッとさせられた。自分がまさに山口さんが嫌がるような人間に該当するからだ。なぜ折り畳み傘を持たないのかは煩雑になるのでここでは説明しないが、たしかに説得力があって、そうした行動をとる背後にある人生観に共感するから、従いたくなる。困ったものだ。