書物をめぐる二つの指向

古書修復の愉しみ

私の勤務する職場は多少特殊なところで、ごくふつうの刊本(洋装本)に加え、おびただしい数の古文書や和本などを所蔵している。常日頃と言ってしまうと古文書の場合語弊があるが、和本はほとんど毎日仕事で接して(めくって)いる。
それゆえ、そうした古文書や巻物、和本などを専門に補修する部署があり、しかるべき修復師の下で修業した人が所属し、さまざまな作業に従事している。
和本を日常的に取り扱うため、毎年初夏の頃、新しく入った人間(常勤・非常勤を問わず)を対象に技術講習会が開かれる。私も1年目に参加した。掛軸の掛け方から巻物の開き方・巻き方といった取り扱いはもちろんのこと、和本の綴じ方まで丁寧に手ほどきを受ける。
ところが、私は手先が不器用で、満足に和本を綴じることができなかった。いまでも和本を手にするとたまにそのおりのことを思い出し、苦々しい気持ちになる。いとも簡単にそういう作業をこなす人たちに畏敬の念を抱かずにはおれない。
年に一、二度、技術専門職員の人と出張し、作業を間近に観察する機会を得るのだが、鞄や道具箱から作業に必要な道具や補修用の和紙などを取り出して身の回りに並べ、いざ作業に入るという姿を見るとそこに後光がさしているように見えてしまう。
アニー・トレメル・ウィルコック『古書修復の愉しみ』*1(市川恵理訳、白水社)を読んでまず思ったのは、以上のように自分が日常的に浸かっている環境と欧米のそれとの比較であった。日本と欧米の書物修復についての違いということである。
著者は、米アイオワ大学中央図書館に勤務した書籍の保存修復家で、本書は、同図書館に勤務していたアメリカでも指折りの工芸製本家・書籍修復家ウィリアム・アンソニーに弟子入りした著者が、書籍修復の第一歩から学び、技術を習得してゆく過程を記録した本である。
欧米、とくにフランスなどは鹿島茂さんの本などでも知られるとおり、仮綴の状態で販売され、購入者が自分の好きなように装幀するというような書物への対し方をしているためか、こうした書籍の保存修復について関心も高く、比較的多くの技術者がしかるべき機関に所属して仕事を行なっているようである。
本書を読んで驚いたことは多い。とりわけ時間が経つとボロボロになってしまうことで問題になっている酸性紙については、折を一枚一枚外し、紙を脱イオン水に漬けて脱酸するのだという。紙と水は相性が悪いという固定観念があるから、紙を水に漬けるというやり方に最初は面食らってしまった。破れた紙の補修には和紙が用いられる。和紙のほかにも、日本の様々な技術・道具が欧米の書籍修復に利用されていることが本書を読むとよくわかる。
また、アメリカには製本家・装飾画家・カリグラファー・装飾紙作家・書籍修復家が所属する組合的組織「ブック・ワーカー組合」なるものが存在し、書物の装飾といった工芸的な事柄や修復問題について、情報交換が活発に行なわれていることにも興味を惹かれた。やはり書物に対する関心の度合いが高いのである。
著者が勤務していたアイオワ大学中央図書館の保存修復部が主催する展示「本と言葉を救う」展のキャプション中には、とても有益な提言がみられる。本の問題に対する解決策には、「保存(プリザヴェーション)」と「修復保存(コンサヴェーション)」という二つの側面があるという。前者は「書物の知的内容を守ろうとする試み」、後者は「知的内容とともにその容器―表紙や紙、花ぎれなど―をも守ろうとする試み」とまとめられる。
この考え方は、書物修復という場面のみでなく、書物に対する向き合い方というもっと大きな問題に置きかえることも可能である。端的にいえば、本とは“読めればいい”のか、“モノとしての価値も大事”なのかというものである。上記キャプションには、さらに次のように書かれてある。

ウォルト・ホイットマンの『草の葉』の初版を――ホイットマン自らが活字を組むのを手伝った版を持つ人は、『草の葉』のマイクロフィルムを見る人とは違う詩の受けとめ方をするといっても差しつかえないでしょう。あるいは、『種の起源』の初版を読む人は、この本が生まれた背景に関して、現代のペーパーバック版を読む場合とはまた違った印象を受けるでしょう。(203頁)
別にいずれかいっぽうを選択するという問題ではないが、書物のモノとしてのハード面と、書かれてある情報というソフト面の均衡という本質的な問題に関わる提起であるし、さらに広げれば、この問題は現代のデジタル書籍に対する感じ方にも波及するだろう。
本書で書かれてある書物の具体的な修復作業工程は、実際のモノを前にしていないゆえになかなかイメージがつかみにくいものだった反面、読みながら、そんなハードとソフトのせめぎ合いという点に考えが及んだのであった。