東京の破片

東京百話・天の巻

堀切直人さんの『浅草』*1(栞書房、本書については別の場所で書く予定)を読み終えた直後2泊3日で京都出張に行ってきた。出張前にいつも迷うのが携えてゆく本のことだが、今回はあっさり決まったのである。種村季弘『東京百話 天の巻』*2ちくま文庫)がそれである。浅草に関する書物の引用で織り上げられた堀切さんの本を読んでいたら、その師匠筋にあたる種村さんが編んだ東京アンソロジーを読みたくなってきたのだ。
種村さんにはまり込んだ頃の日記を抜き書きした「タネラムネラな日々」(→9/5条)にもあったように、本書との出会いは十数年前に遡り、その後何度も手にとって眺めたり拾い読みしたりしてはいたものの、通読したことはなかった。そのあたりの経緯は、種村さんの『江戸東京《奇想》徘徊記』*3朝日新聞社、→2003/12/19条)の感想を書いたとき、「私の東京への関心は、種村さんが編んだちくま文庫『東京百話』に触れたこと(読んだこと、ではない)が一つのきっかけになっている」と慎重に記しておいた。
天地人3冊にわたるアンソロジー『東京百話』の第一冊目にあたる「天の巻」は、「地の巻」「人の巻」が内容的にそのタイトルから推測できる(「地」はその土地にまつわる文章、「人」は人間にまつわる文章)のに対し、漠然としている。

平らかな「地」の上で「人」の目線の高さで見るのではない、もうすこし上でなければ、もしくはもうすこし違う視点からでなければ見えないもの、空、舞台、スクリーン、ネオンやショーウィンド、あるいはすこしばかりよそゆきのお店、要するに日常からちょっと爪先だったあたりに浮んだ東京の破片を集めた。(「編者あとがき 野暮の効用」)
だから本書では、澁澤龍彦チンドン屋のこと」、小沢信男夜の紙芝居」といった祝祭空間の話から入り、娯楽、食べ物、カフェ・飲み屋、赤線、商店・デパート、生き物についての文章がずらりと並んだ挙げ句に、佐藤春夫「化物屋敷」、内田百間「東京日記(抄)」のような怪奇幻想的小説と瀧口修造小沢信男赤瀬川原平横尾忠則らの夢記録で締めくくられる。必ずしも東京という範疇に収める必要もない文章もまじっているが、しかし「東京百話」というかたまりのなかに置けば、その文章が身の置場を確保して動かしようがないほどしっくりと馴染んで見えるから不思議である。
私にとっては、永井荷風の「寺じまの記」「虫の声」が群を抜いて心に沁みた。荷風の随筆が日本語の美しさのひとつの頂点であると信じて疑わない。その他岡本かの子の短篇「鮨」もいい。東京を語るうえで引き合いに出される有名な小説の一篇だが、今回初めて読んだ(と思う)。山の手と下町の境界に位置する崖の町にある鮨屋での郷愁を誘う物語。
エッセイでは、ランダムにあげれば、東京の物売りの声を録音してアーカイブ化する必要性を説いた寺田寅彦「物売りの声」の先見の明、大宅壮一がその名のとおり一夜円タク助手を勤めたときのルポルタージュ「円タク助手の一夜」の緊張感、また獅子文六の都電賛歌「なぜ都電が好きなのか」、「ひょっこりひょうたん島」を書いていた頃の多忙な作家活動の思い出、井上ひさしの「喫茶店学」、芋虫を微細に観察して絶品の徳川夢声「芋虫」、まだ天の川が夜空一面に輝いていた頃の東京の回想、野尻抱影の「桜新町」などなど。また映画監督山本嘉次郎のエッセイが『洋食考』から3篇が採られており、この本が気になってきた。
東京の町の利点については、梅崎春生「浅草と私」の一節が見事に指摘している。
今おもうと私がこんなに通いつめたのも、田舎から出てきて、浅草にエキゾティズムを感じていたせいもあろうが、この、浅草という土地では、自分がなんら特定の人間でなく、たくさんの人間のなかのひとりであるという意識が、私を牽引するおもな理由であったようだ。
要は「群衆の中の孤独」にほかならない。出張で東京を離れたときに『東京百話』を読むのも変な話だが、逆に出張という機会に東京を離れているからこそ読むことのできた本なのかもしれない。次の出張では「地の巻」を携えてゆくことにしようか。