第60 池内紀を読んで練馬に行こう

城南住宅

練馬区立美術館で開催中の特別展「小熊秀雄と画家たちの青春」展を観に行こうと思い立ち(詳しくは下記参照)、同美術館のある中村橋付近でほかに見るべき、歩くべき場所はないかと地図を開いたところ、すぐ北側に豊島園を見つけた。もっともそれ以上に気になったのは、西武豊島園駅の豊島園とは反対側(東)に密集して存在する寺院群のほうである。
どこか大寺院の子院なのだろうか、あるいはもともと都心部にあった寺々が震災もしくは戦災で練馬に移転・集住したのか、そんなことを考えながら地図を眺めていたら、豊島園のすぐ南に「向山」(こうやま)という場所があることに気づいた。この地名、どこかで見おぼえがある…。
本置部屋に入って心当たりの本を書棚から取り出し、めくったところ、この記憶は間違っていなかった。以前もここに登場した池内紀さんの“建築探偵小説”『街が消えた!』*1(新潮社)中の一篇アンモン貝がそれだ。この短篇の舞台は「城南住宅」である。作中で引かれている『角川日本地名大辞典13 東京都』の一節を孫引きする。

豊島園の南の城南住宅は大正から昭和初期のいわゆる『文化住宅』地で山形県人が多い。
大正から昭和初期に開発された住宅地という点はむろんのこと、山形県人としてはどうしても末尾の説明が気になっていたのだ。同作によれば、大正の末に山形県米沢出身の小鷹利三郎という人物が、同郷の知人、友人らと組合を設立して開発・分譲したのがここ城南住宅であるとのこと。
池内さんは城南住宅によほど愛着があるのか、その後時代小説の読書案内エッセイ集『ちょん髷とネクタイ』*2(新潮社、旧読前読後2002/1/6条参照)収録の藤沢周平を持って豊島園に行こう」でもふたたびこの場所に触れている。池内さんはこのなかで、城南住宅を藤沢作品の舞台海坂藩の風景と重ね合わせる。言うまでもなく藤沢周平山形県鶴岡の出身で、海坂藩は鶴岡がモデルとされる。また『漆の実のみのる国』は米沢藩が舞台だ。池内さんは城南住宅をこうスケッチしている。
右手にこぼれ出て小さな商店の並びをすぎると、もの静かな住宅地に入っていく。こちらにもまたどこかしら古風な雰囲気がある。家のつくりは新しいのに、辺りのたたずまいがひっそりと落ち着いている。生け垣がこんもり繁っていて、うしろから庭木がかぶさるようにのびている。生け垣も庭木もなかなかの古木であって、昨日今日ひらかれた土地でないことがみてとれる。シャレたプレハブの住宅と軒を接して、どっしりとした瓦屋根の二階家がある。縁側がガラス戸で、その奥に白い障子がのぞいている。
練馬区立美術館を出たあと、このように描写された城南住宅とはさてどういうところか、ワクワクしながら中村橋駅前の商店街を抜け、目白通りを渡って向山の地に入っていった。目白通りから入るあたりは向山二丁目だが、そこから三丁目に入ると、たしかに雰囲気が変わる。ブロック塀などで囲われた家々の連なりが途切れ、生け垣を主体とした緑の多い空間になるのだ。起伏もあって変化に富む。池内さんの本で言及されていた「環境宣言」の看板を見つけたので、この場所が城南住宅であることを確かめた。
紋切型の表現になってしまうが、まさに落ち着いた雰囲気の閑静な住宅地と言うにふさわしい。東京には歩いていて気持ちがよくなるような高級住宅地が数多く、そうした場所を歩くたび東京という都市の奥深さを感じるのだが、やはり今回もそうだった。城南住宅は出発点こそ高級住宅地というかたちではなかったのだろうが、周辺にここを上回る住宅地開発がなされなかったため、相対的に高級住宅地になってしまった、そんな空間である。だからいわゆる「大豪邸」が立ち並ぶわけではなく、庶民でも頑張れば手が届きそうなところ。これこそ戦前の文化住宅というものなのだろう。
並んでいる家の門に埋め込まれた表札の名前を見るともなしに見て、一瞬目を疑った。研究のうえで色々とお世話になっている先生の名前がそこに記されていたからだ。頼りない記憶の糸をたぐってみると、たしかに年賀状にこの住所を書いた憶えがある。何たる偶然、あの先生のお住まいはここだったのか。向山という地名で池内紀さんを思い出し、いっぽうで先生のご住所は抜け落ちている。記憶とはかくもいい加減なものなのか。
そんなことを考えながら生け垣をめぐらせた住宅地を歩いていると、突然「クワッ」という動物の鳴き声が耳に入った。どきりとして、通り過ぎようとしていた家の庭先に目をやると、こちらを見ているニワトリと眼が合った。番犬ならぬ番鶏。まさか東京のこういう場所で、庭先に放し飼いにされたニワトリにお目にかかるとは思わなかった。一瞬米沢にいるかのような錯覚をおぼえたが、まさか米沢でも庭先にニワトリを飼っている家はそうあるまい。そういえば、歩いているときに自転車で脇を通り過ぎていった老夫婦の会話が山形弁のように聞こえたのは、先入観による空耳だろうか。
ところで城南住宅はなぜ「城南」と名づけられたのか。池内さんは、米沢城の南という意味ではないかと推測している。距離はあるが南であることは間違いない。以下私説。現在米沢市の中心部に米沢城跡があって、その南方に下級武士たちが営んだ住宅がいまでも道路沿いに広がっている。あるいは開発当時ここはそんな風景を想起させたのかもしれない。そこであれば、たしかに庭先にニワトリがいても不思議ではないのである。
※城南住宅の写真はこちら → http://www2u.biglobe.ne.jp/~kinko/photo.htm