精興社と活版印刷

活版印刷技術調査報告書(改訂版)

一目見て他と区別できる独自の風格ある印刷書体で、本好きなら嫌いな人はいないだろうと思われる印刷会社精興社は、東京都八王子市にある。活版印刷は平成7年(1995)でもって廃止されたものの、その独特の「精興社書体」は写植文字に移され、いまなお群を抜く美しさで本を読む愉しみの土台を支えている。
名刺など比較的簡易な印刷にはいまだ活版が用いられる場面が多いようだが、商業出版(とくに一般的な書物)では、すでに大半が写植組―オフセット印刷に移行している。だからまれに活版で刷られた書物に出会ったりしようものなら、思わず凸凹を指でなぞったり紙面の匂いを嗅いだりしながら幸福感に満たされる。
昨日も触れた松田哲夫さんの『印刷に恋して』晶文社)にもあるように、活版印刷技術は、極端に言えばもはや伝承技術として保存対象となるべきものとなりつつあるのである。この精興社の来し方と現在の取り組みについては、最近では、南陀楼綾繁id:kawasusu)さんが『東京人』199号(2004年2月)に書いた「「活版印刷」という仕事。」という一文が詳しい。
そこでも紹介されていた『活版印刷技術調査報告書』(2002年3月刊)は、その時点ですでに入手不可能となっており、同文中で今春の改訂版刊行が予告されていたのだが、このほど改訂版刊行の知らせを南陀楼さんから受け、とうとうわが手に入った。
正式な書名は青梅市文化財総合調査報告 活版印刷技術調査報告書 改訂版』青梅市調査委員会)。活版をやめたとはいえ、青梅の精興社本社には、活版印刷工場がそのまま残されており、青梅市はこれを産業考古学の対象として活版印刷技術の保存という目的で調査を行ない、その成果がこの報告書にまとめられた。実際のところは明星大学の森啓さんをリーダーとする活版印刷技術調査団が調査を行ない、この報告書は森さんの単著という扱いである。
目次は以下のとおり。

  • 第一章 精興社の特質
  • 第二章 活版印刷の流れ
  • 第三章 精興社スピリット
  • 第四章 精興社が世に送り出した書物
  • 第五章 精興社の人々

第一章では精興社の印刷の歴史を概観し、その特質を指摘する。第二章は豊富な写真とイラストで、実際の活字組版―印刷の工程が紹介される。“印刷技術好き”にはたまらない章だ。第三章では、精興社の思想と、そこから生みだされた活字書体(君塚正字)の文字の刷見本拡大図がずらりと並び、複雑な組版の版面事例が紹介される。ここでは活字鋳造・文選・植字から校正までの工程が具体的に写真付きで丁寧にたどられている。第四章は大正2年から昭和40年までに精興社が印刷した書目が一覧表にまとめられている。第五章は創業者白井赫太郎と彼の遺志を受けついだ精興社の経営者たちの事績が紹介される。
今回の改訂版では、補遺として『日本古典文学大系』の組版面の図版・解説と、簡単な「活版印刷用語解説」が付いた。言うまでもなく本報告書の印刷は精興社による。
私の勤務先では、岩波書店―精興社の仕事のなかでももっとも困難な組版を強いた本を作っていた(現在も写植によりこの関係は継続している)。本報告書でも版面の写真や倉庫に収められた保存用ゲラの包みの写真が収められていた。同僚の中には実際活版印刷で出版を行なった担当者もおり、思い出話を聞く機会にも恵まれている。
いまのところ手元に置いてパラパラとめくっているだけで十分な満足感が得られており、中味をじっくり読むという段階にまで進んでいない。外面的な紹介に終始したが、興味をお持ちのかたには、また品切になる前に入手をおすすめする。問い合わせ先は下記のとおり。頒価4000円(現金書留か郵便小為替)、送料一冊450円(切手にて)とのこと。

〒198-0053 東京都青梅市駒木町1-684
       青梅市教育委員会 青梅市郷土資料室
       電話0428-23-6859
余談だが、精興社と言えば、昨日触れた臼田捷治『装幀列伝―本を設計する仕事人たち』平凡社新書)のなかのエピソードを思い出す。葛西薫さんの仕事を取り上げたなかで、村上春樹の著書『村上ラヂオ』の印刷を精興社で行なおうとしたところ、精興社字体が高雅に過ぎるため、著者の意向で、よりカジュアルな雰囲気をもつ同社字体の別バージョンに変更されたという挿話。村上さんが装幀・造本に細かく気を配る小説家であることがよくわかる話であるが、精興社のカジュアルな字体とはどんなものなのか、見てみたいものである。