装幀再認識

装幀列伝

臼田捷治さんの新書新刊『装幀列伝―本を設計する仕事人たち』*1平凡社新書)を読み終えた。
メインサイトの購入本・読了本リストに装幀者の項目も入れているように、私はこれまで本の装幀や印刷を含めた造本というものについては関心を持ってきたし、気を配ってきたつもりであった。しかし本書を読んだことで、この自分の姿勢がぐらぐらと揺らいでいる。“装幀を気にする”などと言いながら、これまで自分はいったい何を見てきたのか、偉そうなことを言うな、と。
たとえば自分の装幀・印刷・造本への関心を書物で示せば、和田誠さんの『装丁物語』*2白水社)であったり、松田哲夫さんの『印刷に恋して』*3晶文社)であったりする。でもよく考えてみると、この2著からもわかるように、どちらかといえば技術的な面での関心に傾いていたことに気づいた。肝心のデザインや思想といった面は捨象というと言い過ぎだが、あまり関心を向けてこなかったのである。
臼田さんの本は、戦後1950年代以降における装幀の流れを、装幀を担った人びとが属したジャンル(職業)別にまとめ、これらの潮流を概括したものである。目次順に並べれば、編集者・詩人・版画家・画家・イラストレーター・「幻の装幀家」・著者自装・杉浦(康平)イズム咀嚼者・ミニマリスト・現代の旗手となる。このように装幀の仕事を担い手によって特徴づけ、現代装幀史に位置づける叙述を読んでいて目から鱗が落ち、かつ前述のように自分の装幀に対する認識の甘さを反省したのである。
編集者では雲野良平、詩人では吉岡実北園克衛、版画家では恩地孝四郎加納光於柄澤齊、画家では中村宏建石修志イラストレーターでは和田誠真鍋博宇野亞喜良ミルキィ・イソベ、著者自装では澁澤龍彦、杉浦イズム咀嚼者では松田行正ミニマリストでは多田進、現代の旗手では鈴木成一などなど、むろんここにあげたのは一部に過ぎないのだが、本書の中で紹介されている本の書影を見て、「この本はこの人の装幀だったのか」と驚くこと再三に及び、装幀に対する自信を失ったのである。
上記ジャンルでは、いま私はミニマリストの仕事にもっとも惹かれる。ここで名前が出ていた多田進さんは、最近読んだ本でいえば、高峰秀子『わたしの渡世日記』元版(→9/12条)の装幀を手がけている。装飾性をそぎ落としたシンプルな美しさ、版元でいえばみすず書房や小沢書店といったあたりの本の装幀がいい。本書によれば、このミニマリズム復権を後押ししたのが詩人らの装幀の仕事であり、たとえば吉岡実大岡信平出隆の名前があげられている。たしかに平出さんの本の装幀は、いずれもシンプルで素敵だ。これをミニマリズムというのか。クラフト・エヴィング商會もここに位置づけられている。
担い手別に流れをまとめたことのメリットとして、書物文化の重要な一翼を担う装幀という仕事の問題点が鮮明になったことがあげられよう。「編集者装幀の意義はまだ存在する」(27頁)、「版画家の装幀の退潮は、装幀文化の危機」(59頁)、「画家の装幀が軽んじられるようになったのは、画家の責任というよりも、むしろ画家の個性に見合う適材適所の起用を怠ってきた出版人の側のそれのほうが大きい」(63頁)、「いま著者の側の装幀への思いがあまり伝わってこないのはさびしい」(130頁)のような厳しい批判の矢が放たれる。
電子出版が少しずつ幅をきかせつつある書物文化の流れのなかで、装幀がもつポテンシャルを強く印象づける刺激的な本であった。