型の魅力

歌舞伎 型の魅力

歌舞伎とはつくづく不思議な演劇だと思う。ある演目を一回観てそれでおしまいということにはならないからだ。現代の人間ゆえ一回観ても話をすぐに理解できないという基本的素養の問題は無視しても、観れば観るほど理解が深まり面白味が増す。それがたとえ同じ役者のものですらそうで、違った役者の所演であればなおさらのこと。回を重ねるにつれ筋立てや所作が頭に入ってくるから、微妙な差異を感じ取ることが可能になってくる。そうなってくると観るのが愉しくてたまらなくなる。
この流れは、そのまま歌舞伎について書かれた本についても言える。入門書は別にして、ある程度踏み込んだ内容の歌舞伎本は、一回読んだらそれでおしまいには決してならず、そこで触れられていた演目を観ては読み直す、あるいは観る前に読み返し、その都度得るものがある。観劇と読書の相乗効果で歌舞伎が愉しめるのである。先日密偵おまささん(id:mittei-omasa)との間で、戸板康二さんの『グリーン車の子供』もまたそうした部類に属する本であるというやりとりがあったが、これも当然歌舞伎について書かれた本であることが理由の一つだからだ。
一つの演目について役者によって演じ方が違うということは、歌舞伎では「型」という言葉で表現される。型とはその演目や登場人物に対する役者の解釈の表象であり、当然解釈は人それぞれだから役者の数だけ型は存在しうる。ところが実際には、ある一人の役者が考案した型がその演目の解釈としてすぐれたものであればあるほど、古典化されて後世の役者たちに受け継がれ、洗練されてゆく。いまわたしたちが観ることのできる演目の多くは、代々の歌舞伎役者による解釈と芸の伝承の賜物であるのだ。
江戸の現代劇たる世話物は多くが「型なし」で、型が様々残るのは義太夫狂言にかぎられるようだ。渡辺保さんの新著『歌舞伎 型の魅力』*1角川書店)は、いまなお様々な型が伝えられている有名狂言の役17について、それぞれの型を紹介し、写真や劇評、自らの記憶をもとに演じ方の違いを克明に記録した本である。観劇歴足かけ7年に過ぎない私ですら汲めども尽きぬ興趣をおぼえたのだから、たぶん今後座右に置いてここに書かれた演目が出るときには必ず参照することになる本になることは間違いない。
「「陣屋」の熊谷」から「「鎌倉三代記」の時姫」まで、通読して感じたのは、型が生じるメカニズムで、これらの多くは〈前近代〉と〈近代〉、〈上方(大坂)〉と〈江戸(東京)〉という二つの大きな対立軸のうえに成立することになる。江戸的な時代がかった演じ方から、近代的な人物解釈にもとづく心理的な「ハラ」の芝居へ、また、コッテリと色気に富んだ上方的なやり方とアッサリといなせで粋な江戸のやり方。おおよその演目の型は上記二つの、いわばX軸Y軸に規定された座標上で分類できそうである。
そしてこれらの型を残すに大きな功績のあった役者も限られてくる。明治の名優九代目團十郎・五代目菊五郎をはじめ、五代目歌右衛門、六代目菊五郎、六代目梅幸、七代目團蔵、十五代目羽左衛門、五代目彦三郎、二代目秀調、三代目雀右衛門、三代目梅玉、初代鴈治郎、十一代目仁左衛門、初代延若などなど。やはり彼らの工夫がひときわ目立ち、受け入れられたということなのだろう。意外に初代吉右衛門(つまり吉右衛門型)は登場回数が少なく、目立ったのは「俊寛」のみだった。
彼ら型を創出した役者たちのエピソードのなかでも、群を抜いて印象に刻まれるのは九代目團十郎と五代目菊五郎二人である。この二人、個人的な印象では特徴的な馬面で必ずしも美男子とは言えないのだが、ひとたび舞台の上に立つと勇猛な武将やいなせな江戸っ子、可憐な娘役を演じ観客を陶酔させたのだという。それが不思議でならない。その不思議を不思議と感じさせない力が型の力だったのだろう。
本書では、型を論じることで、これまでの解釈とは違った新しい解釈を提示することにも成功している。たとえば「「御殿」の鱶七とお三輪」の一篇にて、舞台装置の御殿が現在では白木造りが一般的だがもとは黒塗りが一般的だったとし、白木造りを一般的にした九代目團十郎の意図について、従来は團十郎の活歴好き(歴史考証に凝る)ゆえとされていたのを、「観客の視線をあざむくための九代目の手段だったのではないか」と推測する。もともと英雄豪傑の役を得意としていた九代目が可憐な娘形を演じるので、観客をアッと言わせる必要があったのだという。團十郎の個人的な企図による装置の変更が、そのときの名演により型として固定化され、今では当たり前となっている。歌舞伎の面白さを示すエピソードではないか。
「あとがき」で渡辺さんは、明治以来型の研究を行なってきた三木竹二岡鬼太郎杉贋阿弥三宅周太郎戸板康二三宅三郎、志野葉太郎らの事績を顕彰する。しかしそれら先人の努力にもかかわらずいまや型が忘れ去られようとしている危機にあたり、「そういう情勢を少しでもくい止め、型の面白さに関心をもって貰いたいために書いた」と言う。
当初は興味本位ではじめたこの作業が、いつしか「できるだけ正確にして後世に残すことがライフワークの一つかも知れないと思うようになった」とのこと。一人の観客である私としては、本書を繰り返し読むことで歌舞伎の型に対する理解を深め、できうれば鋭い批評眼をもって歌舞伎という伝統を見守っていきたいという気持ちが高まった。そのため渡辺さんにはライフワークとしてさらに多くの演目の型を記録し、また本書の内容を増補していくお仕事を期待したい。