言論統制の虚説

言論統制

「〈書評〉のメルマガ」に書かせてもらっている「読まずにホメる」は、読んで字のごとく対象の本を「読まず」に評するという大胆不敵な試みである。そのため、著者の他の著書や関連文献、その本との出会いといった外郭的な情報を総動員することはもちろん、帯の惹句やカバーに刷られている内容紹介、目次までは見てもOKと自らに縛りをかけている。
読まないから間違ったことを書いても許してくれるだろうといった甘い考えはまったく持っていない。メルマガというかたちでおおやけにする以上、自分の文章に対する責任を持ってのぞんでいるつもりであるし、自分の信条としてもデタラメを書いたり貶したりということはしたくない。もっとも対象となる本によっては、デタラメではないけれど、自分の専門と離れていればいるほど気持ちが大らかになって大胆な想像や問題提起ができるということもある。
逆に専門に近いものほど萎縮してしまい歯切れが悪い書き方になることがある。そうした本を取り上げなければいいのだが、やはり「面白そう」と思うからつい取り上げてしまうのだ。
最新の「読まずにホメる」第25回で取り上げたのは、佐藤卓巳さんの新著言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家』*1中公新書)である。これを書いたあと、我慢できずに読み始めたところ、期待どおり面白くて、新書で400頁超という大部の本に倦むことなく、一気に読み終えてしまった。それと同時に、「失敗したかな」と冷や汗が出てきたのだった。
「読まずにホメる」で本書の内容を「戦時中「小ヒムラー」と怖れられた軍人で、情報局情報官だった鈴木庫三少佐を中心に、戦時中の厳しい言論統制のあり方を明らかにした〈戦時言論史〉である。これまで未公刊だった鈴木少佐が遺した日記「鈴木日記」を駆使して〈戦時言論史〉を書き換える意欲的な中味らしい」と紹介した。このまとめは本書の内容を間違って伝えているものではないけれども、かなり的を外した不正確なものだったと反省したのである。
本書は端的に言えば、情報局情報官だった鈴木庫三という職業軍人の真の人物像を明らかにすることで、彼が「戦時中「小ヒムラー」と怖れられた」というイメージを付与され、言論統制の権化のごとき虚像として定説化していった過程を検証するという内容である。
そもそも鈴木庫三という人物を考えるためには、各出版社を恫喝し怖れられたという情報官としての側面だけでは不十分で、彼の“教育将校”としての立場をあわせ考えなければならないとする。“教育将校”とは陸軍大学校で戦術を学んだエリート将校とは異なり、陸軍内部の軍隊教育を専門とした将校のこと。鈴木が“教育将校”という進路を選択するに至った契機を知るには、生い立ちから学問形成のあり方にまで遡らねばならない。本書の叙述はちょうどそれをひっくりかえしたものである。
戦後石川達三の小説『風にそよぐ葦』により悪玉としての虚像が定着した鈴木庫三という人物の虚説を一枚一枚剥がしてゆく過程は実にスリリングで、それはきわめて丹念で実証的禁欲的な論証作業に裏打ちされている。一例をあげれば、194*年*月に鈴木中佐から殴打されたという回想が、実はその時期すでに鈴木が情報官から満州の部隊に転出していたという調べればすぐわかる事実がさも真実らしくまかり通っていたことに、背筋が寒くなる。
茨城の貧しい農家に生まれた鈴木は、少年時代家計を支えるため農業に従事しなければならず、軍人として身を立てる時期が遅れる。刻苦勉励して陸軍士官学校に入学できたものの、もともと砲兵として入隊したという陸軍内部では傍流の出自のうえ、年齢制限のため陸軍大学校に進むことができなかった。
鈴木の思想の根底には、貧家の出としてブルジョア階層の奢侈的生活に対して持つ抵抗感、陸大出の戦術しか学ばない将校たちがリーダーになることにより軍隊教育が疎かにされることへの反撥、また個人主義的・自由主義的な海軍教育への敵視というものがあったという。ひとたび“教育将校”の道を選ぶと、軍務のかたわら大学に通って倫理学・教育学を学び、大学助手として研究者の末端に連なる。さらに陸軍から東京帝大に派遣される派遣学生にも選ばれ、東京帝大の一学生として研鑽を積み、軍隊教育のプロフェッショナルとしての階段をのぼってゆく。
その過程で鈴木は海軍的な個人主義自由主義的思想と真っ向から対立する、全体主義的・家族主義的思想を抱くようになるが、本書を読むかぎり彼の思想はきわめて共産主義的思想に近いものである。佐藤さんもこれを否定せず、むしろ鈴木はプロレタリア主義者や左翼運動出身者を嫌っていなかったとする。
佐藤さんは、前著『「キング」の時代』(岩波書店)執筆中、言論ファッショ化の元凶として何度も鈴木庫三という名前が出てきたことから興味を抱き、彼の人となりを調べるため資料にあたってゆく。そして戦後の鈴木庫三の生活を知るべく彼が住んでいた熊本に飛び、遺族を捜し回ったすえ、ようやく遺族のもとにたどりつき、そこに保管されていた厖大な日記・記録類を目にし、それらを読み込むことで本書が成立した。「あとがき」で述べられている本書の成り立ちを読むと、宝の山に行き当たった研究者の興奮が伝わり、同業者として羨望を禁じえない。
本書では鈴木庫三という人物が持っていた全体主義的思想の当否を問うものではなく、また、書名にあるような「言論統制」のあり方全体を見渡すというものでもない。従来言論統制の元凶と目されていた鈴木庫三の生い立ち、学問形成・思想形成を追うことで彼の教育将校としての立場を明らかにし、それを踏まえたうえで情報官としての活動を検討することで、定説を覆すことに成功したという本である。だから本書によって、ようやく客観的に戦時言論統制を研究する条件が整えられたと言えるのではなかろうか。

たしかに、鈴木庫三とは、貧しい青年が国家を双肩に担う大志を抱いた近代日本の強烈な「個性」であった。もちろん、明治にあった「坂の上の雲」は消えて、鈴木青年の前には閉塞感ただよう現代システム、「天保銭組」*2の陸軍官僚システムとブルジョア的な「趣味の壁」が立ちはだかっていた。その両方に喧嘩を挑んだ強烈な個性こそ、「鈴木少佐」なのである。(407頁)
新書にしてはもったいないほど充実した本で、逆にこういう本をハンディな新書のかたちで読むことができるのは、本好きとしてこれ以上の喜びはない。

*1:ISBN:4121017595

*2:陸軍大学校出身者の俗称。