美術館を見ること

藤森照信の特選美術館三昧

美術館とは、言うまでもなく絵画・美術品を収蔵・公開する施設である。もっともたんに古今東西の名品を蒐集し、訪れる人に見せるだけでは、最低条件すら満たしていない。藤森照信さんは、美術館の本質についてこんなことを書いている。

美術館は建物と展示品のふたつの美からなる、という宿命を負わされている。美術好きの人は展示品の美だけで十分と考えているかもしれないが、それはちがいます。人は、ひとつのものを見つめるとき、かならず周囲の環境を無意識に感じ取りながら、見ている。壁の様子、落ちてくる光、隣り合う作品、足の下の床、天井の高さ、そして背後の空気。獲物を前にしたネコ科の動物(ヒョウなど)と基本的に変わらない。
さて私の場合どうかと言えば、むろん「展示品の美だけで十分」と思っているわけではない。わけではないが、無意識で感じ取った周囲の環境が意識の表面に浮き上がらぬままに展示品の美の記憶に埋もれてしまうことがほとんどだ。企画展特別展といった機会に美術館を訪れることが多いから、自然内容(展示品)主体の観察となってしまう。
藤森さんはご自身天竜立秋野不矩美術館の設計をされていることもあり、美術館の設計、また周囲の環境と建物の関わりといった点について、強く意識されておられるようである。上に引いたのは藤森照信さんの最新刊藤森照信の特選美術館三昧』*1TOTO出版)のうち、その秋野不矩美術館に触れた一節である(232頁)。ここに藤森さんの美術館に対する考え方が凝縮されているといっていいだろう。
本書は日本全国にあるたくさんの美術館のなかから27件を選び、藤塚光政さんの美しい写真とともに、その美術館を建築という視点から論じた訪問記である。選ばれている美術館は、たとえば、神奈川県立近代美術館(坂倉準三)、国立西洋美術館ル・コルビュジェ)、大和文華館(吉田五十八)、熊本県立美術館(前川國男)、渋谷区松濤美術館白井晟一)、谷村美術館(村野藤吾)、伊豆の長八美術館(石川修武)、ハラミュージアムアーク(磯崎新)、ベネッセハウス(安藤忠雄)、馬頭町広重美術館(隈研吾)などなど。括弧内は設計者である。
いま掲げたのは、私が訪れたことがあったり、設計者の名前を耳にしたことがあるような物件ばかりだが、取り上げられた27件いずれもが素晴らしく、また藤森さんの建築を見る視点の鋭さ、推理の大胆さに驚きながら、愉しく読むことができた。藤森さんはもとより建築史家であり、そこに日本建築学会賞作品賞の実績のある建築家という立場も加わるから、この二つの立場からの観察と分析が複眼的に展開され、説得力があるのである。
しかも文章も相変わらず面白い。臨場感満点と言えばいいのか、自分の感情の推移を正直に文章に移してゆくタイプの文章家であるので、読みながら自分もその空間にいるような気分にさせられるのである。
正直といえば、たとえば渋谷区松濤美術館の一篇が面白い。学生時代秋田を訪れ、建築探偵として最初に観察したのが白井晟一作の雄勝町役場だった。そんな「目玉を許した初めての相手」だったにもかかわらず、白井の代表的作品たる松濤美術館は一度も訪れたことがなかった。「目玉のトラウマ」があって、設計を手がけるようになって以来「どうしたら白井のようにならずに私はやれるか」ということを考えてきたからなのだと告白する。
白井建築の圧倒的な存在感に打たれたものの、アクの強さ、わざとらしさ、クササを感じるようになり、設計のさいは「クササをもたない存在感」を追求しているという。階段の手すりの写真には「手すりのカーブを見よ。このクササがどうも」というキャプションが添えられ微苦笑を誘われる。藤森さんにとって、学ぶいっぽうで乗り越えるべき存在が白井晟一であったのだ。松濤美術館は何度か訪れたけれども、まさか階段の手すりまで目は届かなかったなあ。
いままで敬して遠ざけてきたような「見ず嫌い」を克服して訪れた美術館レポートがこのほかにも何件か含まれていて、その都度藤森さんの素直さに敬意を抱く。いったい藤森さんは同年代の建築家の素晴らしい作品を見て嫉妬のようなものは感じないのだろうか。劣等感や嫉妬の固まりばかり抱えた俗物根性ふんぷんたる私は、藤森さんの建築史家・建築家としてのピュアなまなざしに打たれたのである。
藤森さんは、本書で紹介した美術館のうち、読者に訪ねてもらいたいものをひとつあげよと言われたら、「迷わず」高松のイサム・ノグチ庭園美術館をあげるという。私も本書のなかで強く印象に残った館のひとつが、ここだった。ここ何日か、この美術館と、やはり本書で紹介されている丸亀の猪熊弦一郎現代美術館も加え、香川・愛媛あたりに旅行したいなあと考えてばかりいる。旅行とまではいかなくとも、今後美術館を訪れるにあたって、見るべき視点がひとつ増えたことが、嬉しくてたまらない。