団塊の世代はわからない

やむにやまれず

団塊の世代とは、「1947〜49年のベビー・ブーム時代に生れた世代」広辞苑にある。いまだいたい50代前半から半ばの人たちにあたる。最近ではときどき「団塊の世代ジュニア」という言葉も耳にする。団塊の世代の子供世代ということで、調べてみると昭和46-49年(1971-74)あたりに生まれた人びとのことをそう呼ぶらしい。20代後半から30歳にさしかかるあたりの世代で、人口の多い団塊の世代の子供だから、前後の世代にくらべ人口が多く、この世代の結婚・出産、消費動向などが関係業界の注目を集めているようなのである。
私は1967年生まれだから団塊ジュニアより少し年かさで、親も兄弟も団塊・同ジュニアと重なっておらず、いまひとつピンとこない。団塊ジュニア世代に属する知人があの人この人思いあたるけれど、彼らの口から団塊ジュニア世代への帰属意識をうかがえるような発言を聞いたことがない。
それに対して親の世代、つまり団塊の世代の人たちの、その世代への帰属意識はきわめて濃厚に感ぜられる。私が団塊の世代と聞いて思い浮かぶのは、鹿島茂さん(1949年生)である。著作の端々で自らの団塊の世代への帰属意識を述べられていたような気がする。
関川夏央さん(1949年生)もこの世代の発言者の一人である。文庫新刊『やむにやまれず』*1講談社文庫)は、自らも属する団塊の世代の中年男女を主人公にした全18話の短篇集で、その多くに関川さんご自身をモデルにしているとおぼしきシングルの中年男性が登場する。
ただこれを読んでも、団塊の世代とは何者なのかという具体像が鮮明にならない。世代意識の強いことは言えるが、だからこそこの世代の人びとは自分なりの「団塊の世代観」を持っていて、ゆえにこの世代に関しておびただしく存在する言説に惑わされ、すっかり混乱させられている。身近にいる団塊の世代に属するあの人この人を思い浮かべるものの、彼らの風貌からは鹿島さんや関川さんのような世代意識をどの程度持っているのか想像もつかない。かくして私と団塊の世代の間には深い溝が横たわる。
関川さんの本自体は団塊の世代のいまを知るうえで興味深い本だった。「加齢」「老化」を意味する「エイジング」と題する短篇は、中学校の同窓会に集まったこの世代の男女の物語だった。ここでは団塊の世代の老化の悲しみを重信房子の姿形の変化に象徴させている。このなかで同級生で初恋の相手だった女性の口を借りて、「もう未来になんかあんまり興味がないもの。あと三十年世界が何とかなればいいって、どこかで思っている」と言わせている。団塊の世代が経営する会社とか、政治家になる国とかは、たいてい駄目になっちゃうわよ」とも。
最後の第18話「やむにやまれず嘘をつく」は、団塊の世代の男に対するインタビューという対話形式で叙述される。聞き手から「ダンカイって嘘つきですよね」となじられ、相手はこう答える。

そういうミもフタもない言い方をしてはいけない。いろいろあったんだ。面倒な時代だったんだ。その方が面白ければ、やむにやまれず嘘をつくこともあるさ。それだけのことだ。察してもらいたい。
「いろいろあった」「面倒な時代」と言葉を濁されると、さらに私の頭のなかに「?」が広がってゆく。