獅子文六映画と原作との関係について

やっさもっさ

先日獅子文六原作・渋谷実監督の映画「バナナ」を観、その面白さに半分のぼせたような感想を書いた。その後、たまたま同じ映画をご覧になっていた書友ふじたさん(id:foujita)のご感想を拝読して、自分ののぼせた頭に冷水を浴びせられた感じがして目を醒ました。
同じ戸板道を歩む先達として共通する趣味も多く、感性も似ているところがある(と僭越ながら思っている)ふじたさんであるが、同じ映画を観てこれほどまでに違った受け止め方になるとはと驚いた。あまりに違いすぎるため、人それぞれ感じることが違うという当然のことをあらためて知り、愉快でもあった。ふじたさんのご指摘は的確で一々納得させられる点が多く、自分ももう少し冷静に考えることができるのではないかとも思った。
むろんふじたさんも当初は渋谷実作品を「以前はわりと面白がっていたそのB級感」とされているから、最初から拒否反応があったわけではないようだ。ご自分でもこのB級感への違和感は解明課題だとあるので、そのあたり今後の展開を楽しみに待つことにしよう。
ところでふじたさんは、獅子文六原作・渋谷実監督の映画について、興味深いことを述べておられる。

わたしにとっての渋谷実というと、数年前にひょんなことでフィルムセンターで見た『自由学校』が妙に心に残って、獅子文六を知るきっかけを与えてくれた監督。『自由学校』のあとで見た、『てんやわんや』や『やっさもっさ』はあんまり面白くはなかったものの、淡島千景の鮮烈さという点では印象に残っている。映画を見て何年もたったあとで、獅子文六の『てんやわんや』と『やっさもっさ』を読んだときは、あのあまり面白くない映画とストーリーはまったく同じなのに(当然だけど)、獅子文六の文章で読むとこんなに面白いなんて! と、獅子文六のすばらしさにあらためて開眼だった。
ふじたさんは断然原作優勢派であるとおぼしい。獅子文六原作作品と映画との関係については、私も思いあたるふしがある。やはり原作・映画いずれも観たご経験がある書友モシキさんとお話ししたときにも「原作と映画どちらが面白いか」という話題になったことがあるからだ。
とはいえ私が獅子文六の原作とその映画化作品いずれも観たというのはわずか4作に過ぎず、これでは分析の材料にすらならない。参考のためリストアップしてその優劣を示せば、次のようになる。

  • 「自由学校」 原作>映画 ※渋谷実監督
  • 「青春怪談」 原作<映画 ※市川崑監督
  • 「娘と私」  原作=映画 ※堀川弘通監督
  • 「海軍」   原作>映画 ※田坂具隆監督

「海軍」は原作が優勢とはいっても比較にならず判定外と考えたほうがいい。よって奇しくも現在1勝1敗1分けという結果だ。『自由学校』は原作が断然面白い。『青春怪談』は前にも書いたが、山村聰轟夕起子三橋達也北原三枝の名演で、観たあとハッピーな気分になる稀に見る面白い映画だった。原作もけっして劣るというわけではないが、印象は映画のほうが強い。残る『娘と私』はいずれも面白く、かつ泣かされ、甲乙つけがたいという感じ。
ふじたさんは渋谷実監督作品へ不満を漏らしておられる。ここで気づくのは、私が映画に○を付けた『青春怪談』は渋谷監督でなく市川崑監督であることだ。渋谷監督というと獅子文六映画というイメージが強いとされているようだが、思い切っていえば、本当は相性が悪いのかもしれない。ある古本屋で立ち読みした『映画監督ベスト101 日本篇』(新書館)の渋谷実監督の項にも似たような指摘がされていたと記憶する。
映画「バナナ」は面白かったけれど、原作を先に読むべきだったと後悔したのは、私にもやはりこの相性の悪さというものを直感的に感じたゆえかもしれない。いま原作を読んでいるので、いずれ甲乙が判明することだろう。
ところで来週はふじたさんが原作のほうがいいとされた「やっさもっさ」を観に行く予定でいる。後悔せぬためにも今回は映画を観る前に原作を読んだ(朝日新聞社刊『獅子文六全集』第六巻所収)。相変わらず物語への牽引力が抜群の快作だった。
これで“戦後三部作”と言われる『てんやわんや』『自由学校』『やっさもっさ』すべてを読んだことになるが、これらがいま読んでもまったく古びていないのは、戦後という社会にべったりとくっつくわけではなく、いずれもが、戦後社会に根ざした社会風俗を的確かつ客観的に捉えたという意味での歴史性が濃厚だからだろう。獅子文六はこれらの作品を構想するとき、自分がいまいる時代の特徴をピタリと表現できる素材や舞台設定はいかなるものかという冷静なまなざしを常に忘れていなかったということにほかならない。この客観的姿勢、言い換えれば批判的精神はおいそれと身につくものではない。
そのときどきの風俗の面白さだけを取り入れ読者うけを狙うのではなく、そうした風俗がどのようにして生じたのか、歴史の流れのなかでどのように位置づけられるのか、社会のなかでどのような役割を果たしているのか、客観的に見定めたうえで小説に取り入れる。いったい獅子文六は小説を書くとき、どのような方法でこれらの筋を練っていったのか、取材ノート・構想ノートのようなものを作っていたのか、そんなことを知りたくさせられるのである。
『やっさもっさ』を読んでもこの視点は生きている。舞台は敗戦直後の横浜。米軍が進駐して一時活況を呈したものの、駐留米軍が横浜を離れたあとの都市復興が市民・地元企業の関心の的になっているという時期設定も見事。だから進駐軍の兵士とパンパンの関係に否応なく変化が生じてくる。彼らの間に生まれた「混血児」を収容する慈善養護施設「双葉園」が舞台の中心となる。これは沢田美喜のエリザベス・サンダース・ホームをモデルにしたらしい*1
双葉園を創設した元財閥の二代目未亡人の下で理事として実務を担うキャリア・ウーマン志村亮子が主人公。亮子の夫は元財閥の番頭として辣腕をふるっていたものの、敗戦のショックで脱力し仕事をせずにブラブラしている。しかし彼は裏では内緒に横浜馬車道のパンパンらと彼女たちの恋人たる外人兵士との間の手紙の翻訳を引き受けて小遣い稼ぎをしている。彼の動向が物語に動きを持たせるポイントとなる。
そこに亮子の同級生でいまでは産児制限運動に携わる女性や、妹の治療代を稼ぐためいやいやながらプロ野球選手をやっている男、彼の恋人でシューマイの売り子(シューマイ・ガール)をしている女の子らが絡む。こうした舞台設定と思いがけない人物配置がすぐれているのである。
ただ残念なのは、『てんやわんや』『自由学校』にくらべ幕引きが予定調和的というか、あまり晴れ晴れとした気持ちにならないことだろうか。主人公の夫に加え、私が個人的にこの物語のもう一人のキーパーソンだと思っていたプロ野球選手が、あまり活躍の場がないまま終わってしまったということもある。これはあくまで主観的な感想だ。
映画では主人公は淡島千景、その夫が小沢栄(太郎)とのこと*2。夫が小沢栄太郎というのは今ひとつピンとこないが、果たして映画は原作を超えている(と私は感じる)だろうか。ワクワクである。

*1:獅子文六のエリザベス・サンダース・ホームに対する関心は『アンデルさんの記』からもうかがえる。

*2:ちなみに野球選手役は佐田啓二。うーん、ちょっとどうかなあ。