憧れの蔵は?

乱歩の蔵

平井家と立教大学が所蔵する乱歩の自筆資料、所蔵本などを中心とした展示。乱歩の作品が背景とした「モダン都市東京」に関する展示も含まれる。
目を瞠った展示物のひとつに、作家活動前の著述の草稿がある。探偵小説とは無関係だが、映画評や「恋愛疾病論」といった評論類が面白そう。これら断簡零墨すべてを含めてこそ「完全版全集」と言えるのではないか。また「D坂の殺人事件」草稿、「二銭銅貨」自筆荒筋なども注目。定稿とはだいぶ異なるという「D坂の殺人事件」の草稿もいずれヴァリアントとして活かしてほしい。
音楽に入れ込んでいた(田谷力三後援会にも参加していた)頃に主催したレコード音楽会の解説原稿、浅草の地図など、これまで乱歩の回想エッセイのたぐいでしか知らなかった作家活動前の乱歩の姿が、実物の資料によって具体的に立ち上ってきた。またスケッチ帳「絵物語」というものも初めて知った。リアルな奥さんの寝姿の図。また団子坂三人書房の室内スケッチや、それをもとに再現した実物大居間も。再現といえば、貸本屋の実物展示もあった。戦後昭和30年代頃に流行った大衆小説やミステリの実物が並んでいる。
もちろん手製本『奇譚』や『貼雑年譜』『欺瞞系譜』、カード類も展示されており、『貼雑年譜』第一巻の丁寧なつくりに圧倒される。丁寧といえば、戦時中町内会長を務めていた頃の配給表や「国民貯蓄増強成績表」「畳数ニヨル町会費割当表」などの丁寧にして細かな表にしばし見とれる。もし乱歩がエクセルやアクセスを使いこなせたらなどと変な空想を抱く。
同輩・後輩作家の来簡、乱歩が出した書簡のカーボン・コピーも展示。『宝石』責任編集時代の自筆広告・目次割付も細かくて、いかにも乱歩らしい。植草甚一宛原稿依頼状のカーボン・コピーがあった(図録では戸板康二宛依頼状の図版が掲載)。変わったところでは、愛読者の少年たちからの年賀状というものも。数字の暗号を書いてきて、「これがわかったら返事下さい」なんていう微笑ましいものもある。
売店では石塚公昭さん制作のオリジナル・プリント(怪人二十面相が銀座を睥睨しているもの)と絵葉書セット、図録を購入。図録は中綴じ28頁とボリュームに欠けるもので、ちょっと残念。

平井家から、隣接する立教大学に寄贈された*1旧乱歩邸だが、今回土蔵の改修工事が終わって特別公開されるというので、これが今回の最大の楽しみであった。東京に来てまもない頃、妻と長男と三人でまだ遺族が住んでいた乱歩邸を訪れ、外側から白壁の土蔵の写真を撮り、それだけでも大感激だったことを思い出す。
いまでは立教大学構内から直接入っていけるように整備され、土蔵も本来の色だったという鼠色(グレーというより本当に鼠色)に塗り直され綺麗になった。
さて肝心の土蔵公開。あの蔵書ともどもどのように公開するのかとなかば訝しみ、なかば期待を抱いて土蔵に向かったら、なんと、入口から一歩足を踏み入れたところで三方がガラス張りになっていて、そこから中(二階へ向かう階段から少し二階も見える)を覗くだけという方法で、すっかり拍子抜けしてしまった。あの乱歩の土蔵の中に入ることができると勝手に感激していたのだが、よくよく考えてみると「土蔵の中に入れる」なんて一言も謳われていないし、蔵本のことを考えるとあの狭いお蔵のなかに不特定多数の人間が入ってゆくことなど常識では考えられないのである。とはいえ残念至極。
図録には、書庫ごと保存するという珍しいケースであることから、「内容・書き込みはもちろんのこと、書庫ごと保存されるがゆえにわかる配置や使用頻度、利用上の特徴など、一種の書庫考古学/蔵書解体学が今後必要になってくるだろう」とある。これはとても興味深い考え方であると思う。乱歩の蔵がこうした学問的な素材として活かされる日がくるなんて、自分が乱歩に夢中になっていた十数年前には想像だにしなかった。
今回の展示を機に、乱歩作品を再読したくなってきたことは、言うまでもない。

*1:乱歩長男の平井隆太郎氏は元立教大学教授でもあった。