またしても時代精神

女優男優

仙台のブックオフ関川夏央さんの『女優男優』*1双葉社)を見つけたときは「しめた」と心中ガッツポーズをとった。新刊時(2003年4月)何度か手にとってめくりつつ迷ったものの、結局買わなかった。この間劇的な変化というわけではないけれど、現在とくらべ当時は取り上げられている俳優や映画への親しみ方が薄かったのである。だからその後旧作日本映画を観る機会を重ねるたび、買っておけばよかったという後悔が大きくなった。ならば新刊書店で見つけるか注文すればいいものを、ケチなものだからここまで古本屋もしくはブックオフでの出会いに賭していたのだった。
本書は三つのパートから成っている。第一章は戦後の黄金期を支えた女優を中心に彼女たちを通して戦後60年代の「時代精神」を見る「女優というメディア」。またしてもここで関川さんの著作を読むためのキーワード「時代精神」が登場する。第二章は男優のインタビュー集「男優調書」、第三章は「ある映画作品から見た昭和三十年代」という評論である。
このうちもっとも古いのは第二章で、17〜18年前になされたもの。取り上げられた一人緒方拳はまだ四十代の頃だ。次いで第三章(1994年)、第二章(2001〜02年)の順。第三章は吉田喜重監督・岡田茉莉子夫妻を中心に、吉田監督・岡田主演の代表作「秋津温泉」を取り上げ、主としてこの作品から「松竹ヌーベルバーグ」という大島渚篠田正浩吉田喜重ら若手監督らが巻き起こした映画の潮流を検証することで昭和30年代の「時代精神」を見通すという内容だ。「「あとがき」をかねて」に拠れば、本書掲載部分が終わったのちも雑誌連載は続けられ、これらは別著『昭和が明るかった頃』*2文藝春秋、→6/6条)としてまとめられている。
『昭和が明るかった頃』は日活に焦点を絞ったもので、そこから「松竹ヌーベルバーグ」を論じた本書第三章を切り離したのは当然だろう。実際のところは『昭和が明るかった頃』にまとめられたさい割愛せざるを得なかった冒頭部分(=本書第三章)が散じるのを惜しんだため復活したとのこと。第三章を読みながら、先日ラピュタ阿佐ヶ谷でかかっていた「秋津温泉」を見逃したことを後悔した。
第一章の女優論はその『昭和が明るかった頃』と時期が重なっているゆえか、日活の女優浅丘ルリ子芦川いづみ北原三枝を論じた各篇がとりわけ精彩に富んでいたような気がしたし、「時代精神」も彼女たち日活女優を素材にすると鮮明に見えてくるとおぼしい。個人的には三人のなかではやはり芦川いづみが気になる。藤竜也と結婚して引退したことを知ったのもある種の衝撃だった。
関川さんが思い入れたっぷりに三人を語る文章は、本書のなかでもとりわけ輝きをもっているくだりであると思う。

浅丘ルリ子が好きだったし、そのようなワンパターンのありかたに、ある種の時代精神を感じ取ったからであった。また日活映画独特の「思想」、すなわち男女間に一沫の苦味をまじえた甘美な幻想はあっても性はないという、娯楽性と禁欲性の併存に気をひかれたからでもあった。(26頁)
しかし、四十年前の日活世界を思い、それを通じて「戦後」という言葉の語感を遠くたしかめたくなるとき、私は決まって芦川いづみをイメージするのである。がさつであり多忙であったが、同時になぜか「可憐」とも「清純」とも印象される「戦後」は、『硝子のジョニー・野獣のように見えて』の彼女とともに、北国の暗い海に自ら没してしまったのだと慨嘆するばかりである。(63頁)
北原三枝こそ、映画女優が、その存在そのものとして時代精神を反映することができた幸福な時代の最後の人であった。高度経済成長直前の夜空を束の間染めて、遠い彼方へと没した彗星のごとき「スター」であった。(116頁)