『大衆文学時評』中毒症

樅ノ木は残った

山本周五郎の代表長篇『樅ノ木は残った』(上)*1(中)*2(下)*3新潮文庫)を読み終えた。何せ文庫本で上中下3冊、合計すると1200頁を超える大作である。一気に読もうとすれば今回のような夏期休暇の時期をおいてほかにない。しかも今回の場合、読み終えたらそのまま実家に置いておく(親の読書用として勝手に提供する)つもりでいたので、滞在中に読み切らねばならないというプレッシャーもかかっていた(これも自分勝手だが)。下巻が途中だからその一冊だけ持ち帰るというわけにはいかなかったのだ。
さて本書は周知のように江戸時代仙台伊達藩で勃発したお家騒動、いわゆる「伊達騒動」を描いた小説である。藩主綱宗の吉原がよい(このありさまは「伽羅先代萩」として歌舞伎化されている)に端を発し、綱宗の隠居と彼の長子である幼君亀千代(のちの綱村)の擁立、一門内部の権力抗争が絡み、最終的に老中邸での詮議の場において、一方の当事者である伊達安芸重臣原田甲斐が刺殺し原田もその場で討たれたという事件である。
そしてこれまた周知のように、本作品は従来の伊達騒動の評価にコペルニクス的転回を加えたのである。原田甲斐は、伊達藩乗っ取りを目論む伊達兵部の懐刀として抗争相手の安芸を刺殺した悪役と評価されていたところに、百八十度違った原田像を提起する。伊達藩を守るため見方をも欺き、騒動の根本である伊達兵部に取り入り、自らの命とひきかえに内部から陰謀を崩壊させようとした人物として描く。胆力があり、激せず常に穏やかに物事に対処する、人物的にも貴賤老若男女を問わず惹かれない人はいないというほど魅力的な人柄で、読みながら「仮名手本忠臣蔵」の大星由良之助を思い出した。
私はこうした御家騒動物は嫌いでなく、またその「現場」である仙台に住み、さらに数年間毎週一度原田甲斐の居館があった船岡(宮城県柴田町)まで仕事で通っていながら、伊達騒動に対しほとんど関心を持ってこなかった。そんな私ですら何となく原田甲斐=悪人というイメージを抱いていたのだけれど、とすれば、『樅ノ木は残った』が発表されたあともなお原田像は完全に覆されなかったということなのだろうか。
そんなことはまあどうでもいい。本書で大事なのは、伊達騒動を題材にとった歴史小説(時代小説)でありながら、読んでいるとそんなことを忘れ、普遍的な、人間の思索と行動、生活を描いた小説であることしか頭になくなることだろう。山本周五郎にとって、江戸時代の伊達騒動という題材は、人間を描くために選び取られた舞台設定のひとつに過ぎないのであって、別に時代は江戸時代でなくともテーマは御家騒動でなくともいい、そんな交換可能な存在に過ぎないことに気づく。
たとえば甲斐が、死ぬことで奉公したいと懇望する家臣の一人に語った言葉。

「しかし、侍の本分というものは堪忍や辛抱の中にある、生きられる限り生きて御奉公をすることだ、これは侍に限らない、およそ人間の生きかたとはそういうものだ、いつの世でも、しんじつ国家を支え護立てているのは、こういう堪忍や辛抱、――人の眼につかず名もあらわれないところに働いている力なのだ」(下巻285頁)
山本周五郎の本意は伊達騒動の評価でないことがこれでわかるだろう。
吉田健一『大衆文学時評』中毒症と言われそうだが、このなかで激賞される山本周五郎水上勉山口瞳戸板康二結城昌治池波正太郎らの作品を読むと、必ず「人間を描いた小説」というキャッチ・フレーズが頭に浮かび、自分なりの評言が見つからず困惑する。『樅ノ木は残った』は史実に材をとり、従来の評価を百八十度転換させるという大胆な発想によるものであり、そこに目を奪われがちになるけれども、読みながら印象に残るのは、この御家騒動に巻き込まれあるいは自らその波のなかに飛び込み、自らの人生を狂わした下級武士や庶民の生き方なのである。
たとえば伊達藩士の縁者ではあるが正式な藩士ではなく、最初は原田甲斐に親炙するものの甲斐の真意を見抜けず暴走してあたら命を失う伊東七十郎、また綱宗側近で綱宗に遊蕩を勧めた張本人として「上意討」の名のもとに誅殺された藩士の親族として逃亡し、はてに一庶民として自分なりの浄瑠璃節を編み出すことに一生を賭けた宮本新八、新八を匿ったことをきっかけに騒動に巻き込まれる柿崎六郎兵衛・おみやの兄妹、おそらく作者の創造だとおぼしき彼ら登場人物の息吹きがとりわけ鮮やかに印象に刻まれた。
武士という身分を捨て芸人として新しい浄瑠璃節「宮本節」を創出することに生き方を見いだした宮本新八の心境はこのように描かれる。
新八は安からぬ代価を払ったが、「主従」という関係や、階級や、武家の義理や道徳から解き放され、「自分」を手に入れたのである。自分の好むもののために生き、そのために死ぬことができる。(下巻218頁)
このさきこんな大作を読み返す体力・気力があるかどうかわからないが、いつか齢を重ねた未来に読み返したいと思わされ、また、いま読んでおいてよかったとしみじみ感じた小説だった。