山本夏彦の花柳界論

最後のひと

昨日触れた井上章一さんの『愛の空間』(朝日選書)は、井上さんの他の著作の例に漏れず知的刺激にあふれた本だった。意表をつく引用の数々とそれらにもとづいた発想の鋭さは、食欲のおこらない暑い夏に辛いものを食べると食欲が沸いてくるのと同じように、読書欲減退気味の暑い夏に読むにはうってつけの本だと言える。たとえ目が疲れていようとぐいぐいと読み進ませる力があるからだ。
本書は性愛空間の変遷というテーマで待合やソバ屋、円宿、ラブホテルなどの使われ方をたどったものであった。とくに第二章「芸者たちと、待合と」で展開される待合での芸者遊び(芸者との売買春)については、待合という施設の使われ方を知る意味でとても重要な仕事であることは間違いないが、待合、ひいてはそれを含みこむ花柳界の文化史的意義といった問題にはほとんど触れられていないのは不十分であったと言えなくもない。
こんなことを考えたのも、同時並行的に、これまた先日触れた阿川佐和子『「夏彦の写真コラム」傑作選2 1991〜2002』新潮文庫)を読んでいたからであった。山本さんは花柳界の消滅をある意味での日本文化の消滅ととらえているようである。「売笑を粋にまでしたのは文化である」(195頁)という一節もある。また吉行淳之介さんが昭和33年に赤線が廃止されたのを惜しんで、何かにつけて「みんな赤線がなくなったせいだ」と言ったという挿話が紹介されている(「みんな「赤線」廃止のせい」)。山本さんの考え方も吉行さんとあまり隔たらない場所にあるとおぼしい。
ところで同書所収「「待合政治」の終焉」に、簡にして要を得た三業地の解説があるので引用する。

芸者屋、待合、料理屋が軒をつらねている一郭を三業地という。柳橋、新橋、赤坂が一流で、以下東京中いや日本中いたる所にその三業地はあった。料理屋は芸者をあげて宴会をする席で、客は泊めない。固く組合に禁じられている。気にいった妓がいたならあとで待合から呼ぶ。脈があれば女将または女中に取持ってもらう。女は断ることができる。その気があってもない振りをすることもむろんある。男はしげしげ通ってなおなびかないと恋のごときがしぜん生じる。明治大正の花柳小説はこれを美化したものである。(216頁)
井上さんの研究によれば待合は東京の特徴らしいので、上の山本さんの説明にも多少の誤解は含まれている。とはいってもこの文章で三業地の仕組みはほぼ尽きる。上記の文章のタイトルにもあるが、山本さんの場合、待合を政治との関わりという角度からも眺めている。別のコラム「たれか素人を知らないか」では、「一流の待合が栄えたのはここでの話は絶対に外部に洩れなかったからである。政治家や財界人が談合しても洩れたためしがない。すべて存在するものは存在する理由があるのである」(194頁)と書く。「「待合政治」の終焉」では、そうした待合の特質を政治にフル活用した最後の人物が田中角栄だとする。
井上さんの本では、吉田健一の『東京の昔』を引いて、待合はたんなる男女の性交のために利用されただけでなく、男が隠れてひっそりと飲む空間でもあったことが指摘されている。またここで賭事も催されていたという。誰が中にいるか外には絶対に洩れないからこその利用法。「待合政治」はその延長線上にあるのだろうと思う。
山本さんには、幸田文の『流れる』を基軸に日本近代の花柳界百年の盛衰を論じた名著『最後のひと』*1(文春文庫)がある。以前読んだとき、私は「幸田文論にして森茉莉論」というタイトルの感想を書いた(旧読前読後2003/3/31条)。山本さん晩年のコラムに加え井上さんの本などを読むと、『最後のひと』を幸田文論・森茉莉論という切り口で捉えたことは、間違いではないにせよ主旨を大きく見誤ったものだと反省せざるをえない。いずれ再読を期したい本である。