老年小説と花柳小説

しあわせ

野口冨士男さんの短篇集『しあわせ』*1講談社)を読み終えた。
本書は純粋な小説集としては生前最後のものになるようである(本書刊行後自選作品集とエッセイ集が出ている)。「横顔」「妖狐年表」「ぶっちぎり」「薄ひざし」「うしろ姿」「しあわせ」の6篇から成る。このうち「薄ひざし」「うしろ姿」2篇が昭和21年発表で、他は昭和50年代から平成にかけて書かれた。排列として旧作に属する2篇が途中に配されている意図がよくわからないが、私小説としてのトーンは晩年の作品とそうかけ離れているわけではない。だが明らかに晩年の作品のほうが質が高い。老年となった主人公(=作者)の人間としての存在が東京の町並みの描写のなかに見事にとけ込んでいる。
表題作「しあわせ」はすでに『しあわせ/かくてありけり』*2として講談社文芸文庫に入っている。既読のはずだが憶えがない。毎度の読み飛ばしによる忘却かと思い過去の感想(旧読前読後2001/10/7条)をあたってみると、どうやらこのときは自伝的長篇「かくてありけり」のみ読んで「しあわせ」は未読のままだったようだ。
「しあわせ」は主人公夫婦の死を濃密に意識した入院経験が主軸となっている。毎朝目ざめると「まだ生きてやがる」「落胆にすら通じる悲哀にひたされ」た思いを抱くラストが印象的で、それでも世間的には自分たちはしあわせに見えるのだろうという自嘲にも近いつぶやきで幕を閉じる。「しあわせ」という感慨は、絶対的なものなのか、相対的なものなのか。
「横顔」「妖狐年表」は「しあわせ」と同じく老年文学に属する作品で、いずれも「老人と性」の問題が取り上げられる。「横顔」は自らの問題、また「妖狐年表」は三田の先輩佐藤春夫が主人公である。晩年の佐藤春夫の詩情を失った俗物性が印象的な一篇である。
残る「ぶっちぎり」は花柳小説に位置づけられるだろう。「ぶっちぎり」とは野口さんらしくないタイトルかと思ったが、この言葉をきいて私たちが思い浮かべる現代的な意味合いとは異なるのかもしれない。先日触れた林えり子さんの『東京っ子ことば』に収められた幸田文用語事典「東京っ子ことばの親玉は幸田文」をひもとくと、「ぶっちぎる」ではないけれど、「私自身も時として使うが、いまの若い人たちは使っていない語」のなかに「ぶっぱたく」が紹介されているから、「ぶっちぎる」も「打ちちぎる」の促音化でもとは東京言葉だと思われるからだ。
内容は、花柳界の女性とは決して恋仲になるまいと肝に銘じている男が、待合にてある娼婦と幾度か肌を合わせ恋仲になる寸前までいくが、あえて自ら縁を切って彼女の前から消えるという話である。つまり、縁を切る=千切る、というわけだ。しかしながらいまこれを書いている途中で、ちぎるは「契る」とも考えられ、まったく逆の意味かもしれないと思うようになった。はたしてそのいずれが正しいのだろう。
ちなみに『日本国語大辞典 第二版』で「ぶっちぎり」は「打千切」で、「他を大きく引き離す」意のみ記載されている。花柳用語として特別な意味でもあるのだろうか。