伊良子清白へ向かって

日本文学盛衰史

高橋源一郎さんの日本文学盛衰史*1講談社文庫)を読み終えた。高橋さんの本を買うのも読むのも久しぶりのような気がする。東京に移り住んでからは初めてかもしれない。
660頁にのぼる大冊であるにもかかわらず、意外にすいすいと読むことができた。明治維新を経て近代化を遂げた日本社会のなかで、新たな文体や文学的表現を生みだすべく苦悩する明治文士たちの姿を、現代社会と重ね合わせながら、パスティーシュの手法で描き出した「異説虚説明治文学史」というおもむき。
二葉亭四迷を取り上げた最初の章「死んだ男」で、歌人藤原龍一郎さんの短歌が引用されいきなり驚かされた。前半では、夏目漱石二葉亭四迷国木田独歩石川啄木幸徳秋水田山花袋らが活躍する。啄木は渋谷のレンタルビデオ屋の店長になり、花袋はアダルトビデオの監督となって「蒲団98・女子大生の生本番」という作品を制作する。そうした破天荒な筋立てに戸惑いつつも、逆にこれが二葉亭四迷が苦悩の末に切り開いた言文一致体や、花袋が「蒲団」で試みた自然主義の表現方法の真意を浮き彫りにする仕掛けとなっていることに気づく。
無味乾燥な文学史的記述だけでは言文一致体や自然主義の歴史的意義がピンとこなかったのだが、本書を読んで「なるほど」と感心したのである。このあたりの問題意識は関川夏央さんに通じると思われ、実際作中にも関川さんは登場するし、関川さんの『「坊っちゃん」の時代』『二葉亭四迷の明治四十一年』それぞれの解説は高橋源一郎さんだ。
さて、国木田独歩が「武蔵野」執筆の過程で二葉亭四迷の言文一致体に近づいた瞬間。

林の中に座っていた「わたし」がついにそこから脱け出る瞬間がやって来る。「わたし」の視線は武蔵野の自然を徘徊するこの長い文章の結末に至り、決意したかのように林を出て、人と都市に入ってゆく。それは日本文学が離陸した瞬間であった。独歩の先輩たちが手に入れようともがき続けたもの、それは透明な散文であった。まるで映画のカメラのように、その陰に作者が隠れることのできる散文。「内面」を探して地上をはい廻っていた作者たちは、その重力なき言語によって、世界を蒼空の高みから俯瞰することができるようになった。「内面」は世界を写すカメラの視線のこちら側にあったのである。明治三十一年一月のことであった。(158頁)
言文一致の文章を読み書きすることが当たり前となっている私たちにとって、それが「獲得すべきもの」であった明治文士たちの血のにじむような努力が伝わってくる。
本作品執筆の途中、高橋さんは胃潰瘍のため死線をさまよった。この一部始終が「原宿の大患」と題され三章分で描かれている。タイトルからわかるように、漱石の「修善寺の大患」が念頭におかれ、奇しくも胃潰瘍という病まで同じ。漱石が入院した虎ノ門の長与胃腸病院に高橋さんも入院して、漱石と同室の患者となる。このあたりが本書の山場だろう。それ以降の後半は、前半にくらべてやや散漫な印象を持った。
前半にはいまひとつ、ドラマチックな一章がある。それは「若い詩人たちの肖像・続」で、主人公は伊良子清白だ。
清白は詩人として詩を書くかたわら、帝国生命保険会社の診察医として口に糊していた。処女詩集『孔雀船』の装画を依頼するため画家長原止水を訪れた清白は、彼の目の前に生命保険のパンフレットを広げ、勧誘を始める。それに怒った止水は「きみのようなエセ詩人の詩集の装画をわたしにやれというのか」と清白を面罵した。
尊敬する画家から「エセ詩人」と言われた打撃から立ち上がれなくなった清白は、処女詩集上梓をまたず東京を去り島根の細菌検査所へ赴任する。200篇近い作品からわずか18篇を選んで成った『孔雀船』以後、清白は詩作から遠ざかり、詩壇からも忘れ去られてゆく。昭和4年日夏耿之介による再評価で「最初の現代詩人」という位置づけが与えられるものの、清白はそれを遠い世界の出来事としか考えず、田舎の一医師として生涯を終える。
日本文学盛衰史』に伊良子清白のことが書かれてあることは、はてなダイアリー“Sound and Fury”(id:merubook)で教わった。気になりつつ高価であったため買わずにいた平出隆さんの評伝『伊良子清白』(新潮社)は、新著『ウィリアム・ブレイクのバット』を読んで以来勃然と沸き起こった平出本への興味と相まって、その後ついにわが手もとにやってきた。実は『日本文学盛衰史』を読んだのは、『伊良子清白』を買うための動機付けであり、読むためのウォーミング・アップのつもりだったのだ。
ただし、伊良子清白という詩人の像を知るためには、『日本文学盛衰史』ほど衝撃的なものはないと思われる。フィクションだからこそ可能な大胆な清白像の提起により、私のように清白という詩人に興味を抱く向きも多いのではなかろうか。