四十の手習い

アダルト・ピアノ

長男のために電子ピアノを買ってから三ヶ月が過ぎた。近所の個人教室に通うかたわら、母親に運指を厳しく注意され、ときには泣きべそをかきながら、家でもピアノの練習を続けている。あれだけ厳しく言われても投げ出さないのだから、よほどピアノが好きなのだろう。
いっぽう私はといえば、ほとんどピアノには触っていない。当初は「自分もやってみようかな」などと冗談めかして言ってはみたものの、案の定冗談にとどまり実現をみていない。ピアノを教わる時間的余裕も経済的余裕もないから、習おうというモチベーションも低い。いや、いまの論理はさかさまなのだろう。モチベーションさえ高ければ、時間的余裕だって経済的余裕だってひねりだせるのだと思う。
井上章一さんは41歳からジャズ・ピアノを独学で始めて8年、いまやときどき京都の某ライブハウスでステージ活動をするほどまでにのめり込んでいるという。その井上さんがピアノを始めたきっかけは、ナイトクラブに置いてあるピアノを優雅に弾くことでホステスさんたちにもてたいというものなのだから、笑えるというか、涙ぐましいというか。井上さんの新著『アダルト・ピアノ―おじさん、ジャズにいどむ』*1PHP新書)にはその顛末が面白おかしく綴られている。
読みながら何度も爆笑を誘われる楽しい本だったが、冒頭第1章で述べられるきっかけには、笑い、かつ身につまされた。老人を聴衆とする教養講座での講演のあと、事務方の職員と世間話を交わすなかで、どんなおじいさんがおばあさんにもてるのかという話になった。
井上さんは興味津々に元大学教授といった人間はどうなのか訊ねたところ、「大学の先生ですか。最低ですね。ぜんぜんだめですよ」という絶望的な答えが返ってきた。「おばあさんたちの前で知識をひけらかしたがり、自分のうんちくに彼女らが感心しないと、おこりだす。あんなあつかいにくい人種はない」という。しかもこうした教養講座を聴くと、何かと講師にいちゃもんをつけたがるのも元大学教授たち。
井上さんはこれを聞いて愕然とする。自分も将来「元大学教授」になるだろう。このままではもてなくなるのは目に見えている。それではもてるにはどうすればいいのか。ピアノだ、というわけだ。
ピアノをやるようになって初めて痔になって悩んでいるとか、子供中心の発表会に参加して強い疎外感を感じたとか、その直後中学生の女の子から声をかけられて、譜面をやりとりするような仲になった話。年末のあるパーティでピアノを弾いていたら熱心に耳を傾けてくれた女性がいたものの、彼女のリクエストに応えることができず、一年間猛練習して一年後の同じパーティに出てその曲目を弾こうとしたら、彼女はパーティに出てこなかったという、語るも涙の「せつないジングルベル」物語。その他「ヘ音記号」の記憶法など、笑える箇所は枚挙にいとまがない。練習時間が思うようにとれないので、勤め先の教授会でつまらない議題のときなど、机の下でひたすら運指の練習をしているというのもおかしい。
「女にもてたい」という欲望をつつみ隠さずさらけだすという自己犠牲のうえに書かれ、笑ってしまういっぽうで中年男の悲哀すらにじませるという独特の「芸境」に達したとおぼしき本書だが、なかには井上さんらしい着眼が光る指摘も多い。
自らの体験をふりかえりつつ「ピアノは女の子がするものだ」という意識の成立をジェンダー論に結びつけたり、90年代における中年男性のピアノ学習ブームは、テレビドラマ「101回目のプロポーズ」「ロング・バケーション」が火付け役であるとし、その背後に楽器販促を目論む楽器産業を想定する。
また、「あとがき」では、趣味で始めた芸事の発表会に編集者を誘う著者、患者を呼ぶ歯医者、建築業者を呼ぶ建築家などの話を並べ、本人は意図しなくても聴衆集めに権力を使ってしまう構図を抜き出し、「芸事と権力」というテーマを提示するなど刺激的だ。
とりわけ「芸事と権力」ということでは、以前読んだ山口昌男さんの『経営者の精神史』*2ダイヤモンド社、→5/14条)を思い出した。同書を読むと、近代の起業家は音曲をよくしていたことがわかる。山口さんの本からは、旧幕臣たちの江戸への逃避という観点を学んだが、井上さんの本を読み「芸事と権力」という視点を得たいま、こうした現象は“失われた権力”の回復という指向性を持っていたことに気づいた。
それにしても、「あとがき」最後の一文(つまり本書を締めくくる一文)を読んでぶっ飛んだ。

ハッスルのアングルにこだわる小川直也へ、拍手をおくりつつ、筆をおく。
小川直也のハッスルハッスルと「アダルト・ピアノ」は関係あるんかいと突っ込みたくなる。