「絶対的初心者」の思想
平出隆さんの新著『ウィリアム・ブレイクのバット』*1（幻戯書房）を読み終えた。
この15年くらいの間に様々な媒体に発表された文章を集めたエッセイ集だが、平出さんは詩人であり、中味の雰囲気からも、エッセイ集というより散文集と呼ぶべきかもしれない。新書版をひとまわり大きくしたような小ぶりの、それでいながら角背で風格の感じられる、平出さんの他の本と同じく瀟洒なデザインで、手に取るとほれぼれとしてしまうような素敵な本である*2。印刷も精興社で、文章の内容と絶妙にマッチする。
ここ数年の間に読んだ平出さんの本を思い出してみる。過去に書いた感想をたどれば、『葉書でドナルド・エヴァンズに』*3（作品社、2001年刊、旧読前読後2001/6/29・6/30条）、『猫の客』*4（河出書房新社、2001年刊、同2002/7/11条）、『ベースボールの詩学』*5（筑摩書房、1989年刊、同2003/4/11条）とつづく。奇しくも一年に一冊のペースで平出さんの本を読んでいることになる。
巻末に付せられた、見事に整えられて見やすい「初出一覧」によれば、前述のようにもっとも古い文章が1989年と15年前のものだから、本書収録の各篇は、過去に読んだ上記三冊と並行して書かれたわけで、実際読んでみると上記三冊の隙間を満たして相互に関連づける「つなぎ」的な内容を持っていることがわかる。
本書収録の諸篇は「glad day」「ball,bat & art」「kafka's drive」と英語で名づけられた三つのパートに分けられている。ドナルド・エヴァンズ制作にかかる架空の国の切手に平出さん自身が撮影した写真や内容に関係する美術作品の図版を重ねた挿絵（コラージュと言うべきなのか）が各所に挿入され、目を楽しませる。
その意味では全編にわたり『葉書でドナルド・エヴァンズに』が底流にあるわけで、そのなかで平出さんが監督をつとめる草野球チーム「クーパースタウン・ファウルズ」の話や、ウィリアム・ブレイクの詩篇に見える発生期野球の姿、シカゴにあるバットのオブジェの話などからは、『ベースボールの詩学』へと通ずる。ベースボール（野球）をかくも詩情豊かに語る人は平出さんをおいて他にいないだろう。本好きの野球好きにとって平出さんの存在はとても大きい。
いつのころからか私は、打撃の道具にことのほか目をひかれるようになった。これはベースボールの実践的愛好者としてみちびかれた必然でもあるし、ボール・ゲームの考古学をいささか奇妙な具合に探る者として、ブッキッシュにもたらされた結果である。（50頁）などと書かれると、読みながらウズウズしてくるのである。
第三部というべき「kafka's drive」は、95年に日本経済新聞に半年にわたり毎週連載された身辺雑記的エッセイを中心に編まれている。ここでは、40歳を越えてから取得した運転免許と、取得後購入した自家用車の話題が中心となる。そのさいのキーワードは「アブソリュート・ビギナー」。平出さんの知人である詩人建畠皙氏の造語で、日本語にすると「まったくの初心者」「絶対的初心者」となる。
一般的に、初心者は経験を積めばそれなりに上達して初心者でなくなってゆく。平出さんは、分別がついた厄年に至って初心者という立場を経験することになった。それならばこの初心者という立場を愉しもうではないか。
「上達のプロセスがいかにして起こるか、これをわが身において観察してみよう」「初心喪失のプロセスをも眺めてみよう」。初心者という立場を保持しつつ初心喪失の経緯を眺めるという不可能事への挑戦。これこそが現実的には存在し得ない「架空の存在」たる「絶対的初心者」である。
ではあらためて、絶対的初心者とはなにか。それは、初めてのときだれでもが抱き、そこからはだれもが忘却していくばかりのあの全身的おののきを、生きものにとっての絶対的根元的始原的快感として保存し、けっして忘却せず、これを運転席でいつでも、のど飴かなにかのように簡単に取り出せる状態に置いておきながら上達していく、みずから選ばれしドライバーのことである。――といったことになる。（149頁）絶対的初心者という目線を獲得したことで、陰険な自動車教習所教官とのやりとり、外国の滞在先での運転体験、最新型の自動車*6の運転体験、漱石や朔太郎の「自転車日記」に自らをなぞらえての初心者体験が捉えなおされる。
よく言われる「初心忘るべからず」とも微妙に違う。冗長になるけれど「絶対的初心者たるを忘るべからず」というわけで、運転免許を持つ者が誰でも体験する“若葉のころ”が詩人の言葉でいきいきと記録されるのであった。
