東京散歩実用書の古びかた

東京旅行記

嵐山光三郎さんの東京散歩エッセイ『東京旅行記*1(知恵の森文庫)を読み終えた。ちょっと前に元版を入手してはいたのだが、読まないうちに文庫版が出てしまった。元版は1991年の刊行とけっこう前になるから、もはや文庫には入らないだろうとたかをくくっていたのだ。それがなぜ13年を経てようやく文庫に入ったのか。

この本はよく売れたが、あえて、文庫本にはしなかった。それは店や物の値段が、どんどん変わっていくためだった。値を書きこむことは、散歩をする人には役に立つが、それが仇となって、時間がたてば、実用書としては古くなる。かくして、この本はいまの東京案内本のさきがけとして評価をうけつつも、その役を終えさせた。
ところが、十四年の月日がたつと、古典化して、それがかえって面白いという側面が出てきた。十年余の歳月は、東京の栄枯盛衰を物語るのである。この本を書いたときでさえ、思い出の名店のいくつかが姿を消していた。いまは、この本に書いた名店がさらに姿を消している。(8頁)
嵐山さんと一緒に東京の町々を歩いたのは、坂崎重盛さんと『ダ・カーポ』編集部(本書は同誌に連載されていた)の大島一洋さん(文庫版解説)二人である。これに嵐山さんを加えた三人は町歩きにさいし、「ガイドブックみたいに順番に行かない」「料理店、飲み屋へは予約をとらない」「文学散歩、歴史散歩をきどらない」「気に入らない店については書かない」「行きさきはその日の気分による」という五つの原則を決めた。
取材とことわって店に入ると、店の厚意で飲み代をまけてくれたり、サービスが良くなったりしてしまう。三人はそうなることを慎重に避け、純粋な散歩者として東京を歩き、飲み喰いすることをこころがけた。しかも何がいくらであったか、細かく値段が書きこまれている。
この部分が古くなってしまったというわけだが、文庫版では各章末尾に「その後のこと」という部分か加筆され、町の風景、お店のたたずまい、値段の推移が追跡調査されている。
本書が連載されたのは90年だそうだ。90年といえば世の中はまだバブル景気。そんな様子は「神田古書店街」の章の冒頭の一節に象徴されている。
ほぼ一キロほどの街並だが、このあたりは、すさまじい地上げ攻勢にあっている。神田名物・本の町といわれた古本街だ。いまのうちに見ておかないと、とせかされる気分で俎橋から、つんのめって歩く。(139頁)
「いまのうちに見ておかないと」というのは大げさのようだが、当時はたしかにそんな気持ちにさせられたのだろう。ひととおり地上げ攻勢にあって以後、神保町の街並は落ち着きを取り戻したのではあるまいか。
嵐山さんの町の雰囲気をとらえる表現はとてもユニークだ。このあたりは大島一洋さんの解説が意を尽くしているので私は触れない。
面白いなあと思ったのは物価についてで、むろん14年前と比べれば総じて物価はあがっているのだが、日本橋界隈という東京のど真ん中といってもいい場所の物価はさほど上昇していない(「日本橋」)。明治屋地下レストラン・モルチェのビーフシチューは1800円から1890円に、コーヒーは220円から230円。たいめいけんボルシチ50円・コロッケ800円は変わらず、たんぽぽオムライスは1500円から1850円、同店二階の小皿コース6890円から7500円。
「九段・北の丸公園」の章では、山口瞳さん「行きつけの店」である九段下の寿司政が紹介されていて、昼一人前1800円であることがわかった。シンコ(こはだ)が美味いという文章を読んで、いいなあと舌なめずりをしていたのだった。ランチがこの程度であれば、何かの記念日に奮発して訪れても大丈夫かもしれない。どうせだから銀座の章で「はち巻岡田」のレポートもしてほしかったな。