先日観た第一部(→5/19条)に続き、展示は以下の11のパートに分けられる。

  • 第5章 画家とモデル―アカデミズムの視覚
  • 第6章 理想化と大衆性
  • 第7章 日常への眼差し―近代の規範
  • 第8章 〈インターナショナル〉スタイルへの展望
  • 第9章 〈東洋〉と〈日本〉
  • 第10章 戦争を描く
  • 第11章 戦後という時代
  • 第12章 リセット:1950-1960年代
  • 第13章 ものと観念
  • 第14章 日本ポップ
  • 第15章 絵画の世紀

第5章、高い壁面の一面にびっしりと自画像が並ぶのは壮観である。青木繁や萬鐵五郎、小出楢重佐伯祐三岡鹿之助、中村彝、村山槐多の自画像がいい。佐伯祐三松井稼頭央にそっくりだ。自画像の壁の対面には裸像の大作がずらり。五姓田義松の作品など。
村山槐多といえば、愛媛の町立久万美術館蔵の「裸婦」が展示、また小出楢重の裸女の絵もいい。この楢重の絵、何かで見たことがある。文庫本のカバーだったか。
第6章では高橋由一の子高橋源吉による「大婚二十五年奉祝景況図」の東京各所の絵とその下絵、また鹿子木孟郎関東大震災スケッチと「大正12年9月1日」という大作に眼をうばわれる。野田英夫の「夏の省線ホーム」も、誰かの漫画を彷彿とさせるタッチで見入った。鏑木清方の「一葉」にも再会。
第7章では小出楢重の「ラッパを持てる少年」(これも再会)、野田英夫「二人の子供」あたり。野田の絵のくすんだ色合いに妙に惹かれる。野田はアメリカに住んでいたこともあってこの絵は外国人の子供二人をモデルにしている。以前見た国吉康雄の絵を思い出す。第9章では横山大観の「富士」。ヘリコプターなどに乗らないとこういう構図の富士山は描けないだろうというような、雲海に浮かぶ惚れ惚れとするような富士の山容。1941年の作品とのことだが、大観は実際にこのアングルから富士山を見たことがあるのだろうか。第11章では有名な丸木位里・俊の「原爆の図」。それに麻生三郎の暗い色調の人物画が良かった。
このあたりになるといわゆる「現代アート」に近くなって、どうも私にとって作品の前にゆっくりたたずみたいと思わせるようなものではなくなっていたのだが、そのなかで引っかかった作品は、中西夏之の「コンパクトオブジェ(卵)」と有名な「洗濯バサミは攪拌行動を主張する」、また高松次郎の「扉の影」だったりする。結局前衛のなかでも「ハイレッドセンター」好きということか。