平成の隅田川絵師

すみだ川を渡った花嫁

“平成の隅田川絵師”と呼びたい松本哉さんの『すみだ川を渡った花嫁』*1河出書房新社)を読み終えた。
最近寺田寅彦幸田露伴の著書を出されたように(『寺田寅彦は忘れた頃にやって来る』*2集英社新書/『幸田露伴と明治の東京』*3PHP新書)、隅田川から少し離れつつある松本さんであるが、やはり隅田川永井荷風を書いた本がこの著者がもっとも本領を発揮するフィールドという気がする。
本書は1995年の刊行で、奥付上にある著者紹介を見ると、すでに『すみだ川気まま絵図』*4『すみだ川横丁絵巻』*5(以上三省堂永井荷風ひとり暮し』*6三省堂朝日文庫)、永井荷風の東京空間』*7河出書房新社)を上梓されたあとの本ということになる。
本書は上記のようなこともあって、永井荷風には少し触れてあるのみで(とはいえ「永井荷風の隠れ家」という一章がある)、隅田川と関わった他の文人・画家に焦点を合わせ、またすみだ川河岸散策の見聞記に重点を置いて叙述されている。書名は芥川龍之介の生母のエピソードに拠っている。彼女は芥川がまだ幼いときに発狂したという。生家は両国で、嫁ぎ先が築地。かくして「すみだ川を渡った花嫁」となるわけだ。
もっとも私にとっては、芥川のエピソードはいまひとつ関心をそそられないものだった。本書のなかで惹かれたのは、乳児の頃の病気で両足が不自由になり、関東大震災で落命した夭折の俳人富田木歩、およびやはり夭折した(?)画家藤牧義夫の二人。
富田木歩は松本さん大のお気に入りのようで、手ずから『すみだ川の俳人・富田木歩大全集』という「B6判で一四〇ページの上製本をこしらえ、常に携帯して隅田川歩きのお供にしているというほどの入れ込みようだ。木歩については「墨堤に生まれた俳人」の一章に詳しく書かれてある。
このなかで印象深いのは、神保町で『定本木歩句集』を入手したときのエピソード。
15000円もするので、欲しいのだけれど、当時定職を失っていた身とて躊躇していたところ、奥様から「買わずにシボんでいるより、思い切って買い、元気出した方がいいんじゃない?」(148頁)と逆に励まされ勇躍購入したという。“本好き夫の妻”の鏡なるべし。本書で唯一付箋を貼り付けたのがこの箇所だった。肝心の内容でなく、こうしたエピソードに感激してしまうのもいかがなものかと思うが。
さて、いま一人の藤牧義夫は、先日芸大美術館で観た(→5/19条)「隅田川両岸図巻」のあの画家で、直後たまたま読書に選んだ本書に藤牧のことが触れられていて驚いた。隅田川両岸の風景をあれほどまでに微細に描いた絵師ということで、松本さんの心をも動かさずにはいなかったとおぼしい。
藤牧については、「おどるすみだ川」という、隅田川にまつわるエピソードをオムニバス的に並べた一文中で触れられている。同じ文中には乱歩作品に登場する隅田川とか、和田芳恵小山内薫といった渋いところ、また震災復興に尽力した東京市の役人太田円三という人物(木下杢太郎の兄)に言及されていて、なかなか面白い。
本書はこのほか青柳瑞穂の小説(!)「隅田川」を紹介したり、田山花袋の知られざる小説「隅田川の秋」を漫画化したりと、マイナーな隅田川文献の発掘紹介にも意欲的である。
ところで本書では、一般に言う隅田川から少し視野を広げて、隅田川が含まれる関東南部の水系や、葛飾区と足立区の境界を流れる「古隅田川」の探索行などにもページが割かれている。
毎度松本さんの本を読んで思うのだが、隅田川やその周辺の地域を鳥瞰的に描いた“絵画風地図”は見ていると時間を忘れてしまうほどの素晴らしさだ。今回は「もう一つのすみだ川」という古隅田川探索行に収められている各種鳥瞰図がいい。荒川や中川まで含んだ広い範囲のイラストを見ていると、私の住まう東京東部はいかにも河川が錯綜して流れていることがわかり、毎日ぼんやりした頭で通り過ぎるばかりの隣町「綾瀬」は、まさに川が綾を成して流れている場所であることを見事に表現した美しい地名なのだと気づかされるのである。

*1:ISBN:4309010202

*2:ISBN:4087201449/既読

*3:ISBN:456963348X/既読

*4:ISBN:4385431612/たぶん既読

*5:ISBN:4385412111/たしか未読

*6:ISBN:4022642033/既読

*7:ISBN:4309008097/既読