旅慣れぬ人間の憧れ

ひとり旅は楽し

私は旅をするのが苦手である。荷物はうまくまとめられず必要以上に大きくなってしまうし、旅先でも、せっかくなのでと限られた時間のなかできるだけ多くの場所をまわろうとする。
前者の場合「旅慣れない」という表現が似合う。ただこの問題は、いまの職業について毎年数回出張で日本各地に出向くうち、だいぶ解消されてきた。ただそれでもなお「下手だよなあ」と毎度自分を情けなく感じてしまう。
学生の頃、何かの事情で青春18きっぷが一枚余ったことがあった。どこに行くあてもなかったので、そのまま「どこに行くあてのない旅」をしようと志したことがある。住んでいた仙台からひたすら鈍行列車を乗り継いで北上し、岩手から秋田へ入り、そこから日本海側の羽越本線を南下、山形県の酒田を経て新庄へ、さらに奥羽本線を南下して山形まで来て夜も遅くなり電車がなくなったため、実家に泊めてもらい翌日仙台に戻ったのである。青春18きっぷは途中下車してもよいはずだったがいっさい下車せず、朝から夜までただひたすら鈍行列車に乗り、いろいろなことを考えながら、ただたいていはぼんやりと窓外の風景を眺めるだけの不器用な「旅」であった。
このときの旅ともつかぬ旅の唯一の収穫は象潟の景色だろうか。大地震によって海が隆起してしまい、松島と並び称されたラグーンに浮かぶ小さな島々が現在では田んぼのなかに点々と浮かんでいるという珍しい景観が、そのときの「疑似ひとり旅体験」の寂寥感とあいまって、いまでも脳裏に残っている。
その点「高校二年生の夏休みに、列車を乗り継いで本州一周をした」という池内紀さんは旅のプロと言うべきだろう。旅の秘訣や旅で出会うかもしれないさまざまなハプニングへの対処法など、さまざまな雑知識を知っているに違いない。
『ひとり旅は楽し』*1中公新書)は、そうした池内さんによる旅のヒントがつめこまれた、楽しい紀行エッセイ集であった。
帯には「達人ならではの、ひとり旅指南」、カバー見返しの紹介文には「疲れにくい歩き方や良い宿を見つけるコツから、温泉を楽しむ秘訣、達人ならではのノウハウが満載」とあって読む前からひるんでしまうけれど、そこはさすが池内さん、正面切った“ノウハウ本”ではまったくない。旅ではああせよこうせよと上から教え込もうという姿勢で書かれたものではないのでご安心を。
本書は旅での小さな体験談を綴りながら、それがそのままそうしたノウハウに直結しているというもので、しかも他人に押しつけようというものではない。池内さん独特の簡潔な文体で書かれた紀行エッセイを楽しみながら、いつのまにか旅というものの本質がわかってくるという感じなのだ。

いい宿を知っているのは、ひそかな財産である。固定資産税を払わずに、全国に別荘をもっているようなものなのだ。そこには執事がいて、いつ何どきでも、気まぐれなご主人さまの来訪の準備をととのえている。料理人は白い割烹着をつけて調理場に控えている。駅にはタクシーという名の自家用車が運転手つきで待機している。それでさっそうと玄関にのりつける。
ものは考えようだ。せっかくの別荘だが、自分はめったに出向けない。たいていはあけているので、ふだんは他人にも使わせている。(「宿を見つける」)
見事な発想の転換により旅の面白さがストレートに伝わる文章である。
自分の別荘だからなかなか他人に教えたくない。こういうものは、旅好きが何度も失敗を重ねながら自分の力で見つけ出してゆくものだろう。自分はこの境地になかなか達せそうにない。

*1:ISBN4121017420