命がけの特権意識表明

出会いがしらのハッピー・デイズ

私は批評という行為が好きではない。いや正確に言えば、批評ができない。批評(批判)が物事を前進させるものであることを認識してはいるけれど、性分として好きにはなれない。このことは、私のような職業の人間にとっては致命的な欠点である。いまさら欠点を克服しようとも思っていない。
批評できないということは、確固たる自分の考え方(意見)を持っていないということである。自らの信ずる立場がないから、その地点から一つの物事を眺められず、受けとめられない。無定見ということだ。ストレートにつながらないのかもしれないけれど、私の場合、無定見は動かされやすい、影響されやすいということにつながる。これは良いことなのか悪いことなのかわからない。無定見ということを定見にすれば格好いいのかもしれないが、そんな境地には達していない。
他人の影響を受けやすい。影響力の強い人であればなおさらで、たとえば小林信彦さんをあげることができる。文庫新刊『出会いがしらのハッピー・デイズ―人生は五十一から3』*1(文春文庫)を読み終えたが、読んでいて私の心は揺らぎっぱなしだった。別に小林さんの考え方が非常識なのではない。むしろ正論であるというべきなのだが、ときおりはなはだしく偏向的な考え方(好き嫌いの激しさ)に触れ、影響されやすい私の心は激しく揺り動かされる。
大好きなのが田中康夫さんや松村邦洋さん、TBSアナの小倉弘子さん、フリーアナの吉田照美さんら。大嫌いなのが筑紫哲也さん。山本夏彦さんは大好きだけれども、どうやら山口瞳さんは駄目らしい(これはあくまで推測)。価値基準がよくわからない。わからないから不安になる。
このシリーズの最新刊『花と爆弾』*2文藝春秋、→5/7条)で気になった森繁久彌賞賛の考え方は、本書にも見られた。

俗にいう〈社長シリーズ〉、〈駅前シリーズ〉は、この演技者としては余技のようなもので、これをもって森繁を論じられても困るのである。ただ、団塊の世代以下の人々では、このあたりのニュアンスがわかる人はごくすくない。(127頁)
この発言などは、以前引用した文章と相通ずる。ただ興味深いのは、上に引用した文章のほうが幾分か柔らかい表現になっているということだろうか。
先日私は小林さんの考え方の一端を「特権意識」という言葉で表現したが、2000年時点での小林さんの「特権意識」はかなり抑えられている。「ハッピー・デイズ」が期待できない今日、小林さんは命がけで自らの「特権意識」を表明して価値観への揺さぶりをかけているように思われる。
本書で印象的だった(面白かった)文章は三島由紀夫の穴」という一文だ。三島由紀夫が自決したときの喪失感をふりかえり、いまでもこの「穴」は埋まっていないと嘆く。このなかで橋本治さんによる三島論を高く評価し、また、これまで叩かれる一方だった谷崎の評価を現在のようなプラスの方向で決定づけたのは三島によるとし、「ホメるにも大きな才能が必要」だと結んでいる。
実はこの文章も「特権意識」の固まりである。小林さんのなかに「穴」が生じた理由は、「〈三島由紀夫〉が〈遍在〉していた時代を知っているから」だと説明する。あらゆるメディアを介して〈遍在〉していた〈三島由紀夫〉という存在を知っているからこそ、自決によってぽっかりと穴があいたわけだ。以下深読みすぎると謗られるのを承知で言えば、三島による谷崎の評価についても、三島がホメる以前における谷崎潤一郎という作家の立場を知らないと、谷崎のことも三島のことも分からないと言っているかのようである。
別に私は小林さんを「批判」しているのではない。こんな小林さんの“命がけの特権意識表明”(「命がけの…」という形容は山口瞳を評した司馬遼太郎の発言から借りた)のゆくすえを、著書を読むことで見守っていきたいと思う。