家族の歴史とノスタルジー

口笛吹いて

重松清さんの短篇集『口笛吹いて』*1(文春文庫)を読み終えた。この本を電車で読もうと決め、電車本にいつも掛けているブックオフのブックカバーをかけながらすでに胸が詰まってくる。いくら重松作品が好きだとはいえ、これは異常だろう。自分でもそう思う。
冒頭のタイトル作「口笛吹いて」を読み始めたとたん、数頁も読まないうちに目頭が熱くなってきた。いよいよもっておかしい。まるでパブロフの犬のように、重松さんの本を読み始めると涙腺がゆるくなってしまったのか。
「口笛吹いて」の主人公は38歳のサラリーマン。総務課長の役職にあり、社内に設置する自販機の営業にやってきた相手先の係長が、郷里の幼なじみの先輩だった。自分にとって憧れのヒーローだった先輩が、人生に疲れたような雰囲気で目の前に現れた。思わず当時の呼び方で呼びかけ、方言が自然に口をついて出る。先輩は主人公の馴れ馴れしい呼びかけに、「そういうの、やめよう」と冷たくこたえる。
帰宅した主人公は先輩(晋さん)からもらった名刺を見ながら、子供時代のアルバムに貼ってあった写真を思い出す。

僕の子供時代のアルバムの最初のページに貼った写真を、晋さんはまだ覚えているだろうか。
産院のベッドに寝かされた生まれたての僕を、ベッドの縁から身を乗りだして覗き込んでいる子供がいる。出産の知らせを聞いて自転車で産院に出かけようとした父に、自分も連れていけとしつこくせがんだ隣の家の息子――それが、晋さんだったのだ。
上が姉二人の末っ子だった晋さんにとって、僕は弟。妹しかいない僕にとっても、晋さんは兄貴。ものごころついた頃からずっと、そういう関係だった。「ジュンペーの『順平』という名前も、わしが考えちゃったんど」という晋さんの言葉を、僕はずいぶん大きくなるまで信じ込んでいた。(16頁)
この数行を読んだだけで、登場人物同士の生まれてから中年の「今」にいたる40年近い年月が頭のなかに広がってゆく。見事だ。そしてもうそれだけで目が潤んでくる。
さて本書収録の他の短篇も含めて眺めると、「口笛吹いて」は30代後半の男の視点、「タンタン」は高校生の女の子の視点、「かたつむり疾走」は高校生の男の子、「春になれば」は産休期間に代わりに入った30代の女性小学校教諭、「グッド・ラック」は30代サラリーマンの男の視点から物語が語られる。
「タンタン」と「かたつむり疾走」では主人公の父親が勤め先をリストラされたことが、物語の大きな鍵となる。「春になれば」では、主人公は二歳の子供を病気で失うという傷を心に秘め、克服しながら小学校の教壇に再び立った。教え子の一人が父母同士がそれぞれ連れ子をもちながら再婚したという家庭環境のため、情緒不安定になって困らされる。「グッド・ラック」は離婚寸前の夫婦の物語。どの話も良い悪い決着つかずに幕が下ろされ、成り行きは読者の想像に委ねられる。前向きに終わってほしいという読者としての願いは巧妙にはぐらかされ、その分強烈な余韻が残る。
いまあげた「タンタン」以下四篇は、リストラ・離婚・死といった、“家族の歴史”の変容を迫る大事件が物語の大きな柱となる。とりわけリストラはいまの時代に即応したテーマであり、重松作品が現代家族を写す鏡であることを例証する。
このように重松さんは“家族小説”の名手であるのだけれども、冒頭の「口笛吹いて」は、こうした“家族の歴史”の断面は副次的で、主人公と息子の少年野球を介しての結びつきが取り上げられる以上に、主人公と先輩と間の「過去」が前面にクローズアップされ、とりたてて“家族の歴史”が変容するわけではない。その点異色と言えようか。
解説の嘉門達夫さんは「口笛吹いて」をこのように評する。
「口笛吹いて」でも敗者がうまく描かれている。地方都市出身者の故郷の風景、その町に住んでいた頃の懐かしい思いを書くと重松さんは本当にうまい。それと現在の暮らしとのギャップ。(351頁)
そう、この物語は“家族の歴史”というよりは地方出身者の大都市生活での挫折とか、青春の蹉跌のような、懐かしくもほろ苦い味わいなのだ。主人公の年齢や子供との関係、また地方出身という立場の共通性が、私の心に響いたのかもしれない。