ゴールデンウィーク迷いの種

季節のない街

山本周五郎『季節のない街』*1新潮文庫)を読み終えた。
西願寺というお寺の崖下にひっそりと存在する貧乏長屋の町並とそこで暮らしたり接点をもつ極貧の人びと。月並みな表現ながら、そんな人びとが織りなすユーモアとペーソスに満ちたエピソードの連鎖からなる短篇集であった。
前に読んだ青べか物語*2新潮文庫)に雰囲気が似ているなあと思いながら読み進め、最後に「あとがき」にたどりつくと、『季節のない街』は『青べか物語』の翌年に発表されたことを知った。作者は「都会の『青べか物語』といってもいいほど内容には共通点が多い」と自ら語る*3。二作は底のほうでつながっているのである。
さらに作者の話に耳を傾ける。本書の舞台となる街は「あたかも風の吹き溜まりに塵芥が集まるような、いつ、そうなったともわからないほど自然な成り立ちであり、経済的にも感情的にも、自分たちの「街」以外の人間とは、交渉を持とうとしない」極貧者によってかたちづくられている。
その日暮らしで食べるものにも事欠き、隣の家庭との間で互いに醤油や塩ひとつまみを貸し借りする。貸し借りすることがただ貧しいからという理由だけでない。その行為で「街」のなかでのコミュニケーションが成立する。何かふだんと変わったことがあろうものならすぐさま噂が街じゅうを駆け抜ける。愚かしくも哀しい人間の生態が具体的に、抽象的な街のなかで展開する。
街には『青べか物語』のような浦粕といった名前がなく、時間の流れもない。そんな抽象的な「街」を設定した理由を作者は次のように説明する。

年代も場所も違い、社会状態も違う条件でありながら、ここに登場する人たちや、その人たちの経験する悲喜劇に、きわめて普遍的な相似性があるからであった。(「あとがき」)
ほろりとさせられる「親おもい」「プールのある家」「がんもどき」、意表をつく人物造型や人間関係に頬がゆるむ「僕のワイフ」「牧歌調」など、山本周五郎ストーリーテラーぶりが冴えまくる。数行も読めばいつのまにか物語のなかに引きずり込まれているのである。
山本周五郎といえば時代小説作家のイメージである。最初に出会った作品こそ時代小説の傑作『小説 日本婦道記』*4新潮文庫)であるものの、その後は『青べか物語』、連作ミステリ『寝ぼけ署長』*5新潮文庫)、そしてこの『季節のない街』と、時代物を避けて現代物ばかり選んで読んできた。そのいずれもハズレがない。時代物はなおさら素晴らしい作品ばかりだと思われるのだが、いまだ私にとって時代物(これは山本周五郎に限らず一般的に)との間には高い壁がある。読むにはその壁を越えられるような強力な動機がなければならない。
このゴールデンウィークに何を読もうか、最近頭のなかではそればかり考えていて、ある程度固まりつつあったのだけれど、本書が「強力な動機」となって山本周五郎の時代物(たとえば『さぶ』『樅の木は残った』)を読むのもいいかな、と考え直しはじめている。

*1:ISBN:4101134138

*2:ISBN:4101134030

*3:青べか物語』の舞台「浦粕」は浦安のこと。いまではここも都会と称して差し支えなかろうが、『青べか物語』を読むと昭和30年代のこの町はまだまだ田舎であったことがわかるのである。

*4:ISBN:4101134081

*5:ISBN:4101134359