散歩欲と散歩幻想

東京遊歩東京乱歩

磯田和一さんの新著『東京遊歩東京乱歩―文士の居た町を歩く』*1河出書房新社)を読み終えた。
磯田さんといえば、持ってはいないけれど、著名人の書斎のイラスト・ルポ『書斎曼荼羅』をまず思い浮かべる。ところが本書を読むと、もともとは童画家で絵本の仕事をメインにしていたところに、イラスト紀行を発表したらその線の仕事依頼が多くなり、いまではすっかりイラスト紀行作家が本業になってしまったということらしい。本書もその系統のお仕事であり、場所を東京に限り、江戸川乱歩芥川龍之介中原中也向田邦子樋口一葉永井荷風の作品の舞台になった場所や彼らが住んだ町を自分の足で歩いてスケッチした楽しい画文集となっている。
乱歩は麻布・谷根千・乱歩転宅場所、芥川は田端、中也は代々木・市ヶ谷・お茶の水向田邦子人形町(「人形町に江戸の名残を訪ねて」というエッセイによる)、一葉は本郷・竜泉(三ノ輪)、荷風は小石川・麻布市兵衛町・浅草・向島といった町々の坂道や路地、特徴的な建物などがリアルにスケッチされている。巻末付録に「池波正太郎の書斎探訪記」が収められ、ここでは池波さんの仕事机のまわりや抽斗のなか、整理小箱のなかなどを大胆に紹介していて面白い。
たくさんのイラストのなかでとりわけ喜んだのは、乱歩にまつわる谷根千界隈を歩いたなかで、根津神社鳥居前のS字坂が紹介され、この坂上にいまも残る「百間遺跡」こと、明治末年に帝大生内田栄造(百間)が間借りしていた家が、きちんと「内田百間が下宿していた家」というキャプションを付けてイラストで紹介されていたことである(19頁)。
この百間遺跡については、かつて旧読前読後でも触れたが(2002/12/18、2003/10/28条)、多児貞子さんによって百間が下宿した家であることが立証されている。さらに嬉しいのは、その家とS字坂をはさんだ向かい側にある古い下宿の建物も一緒にイラストで紹介されていること。入口がなかなかハイカラなのだ。
幾度となく訪れ見慣れた場所ですら、磯田さんのイラストによって対象化されると散歩欲を刺激される。訪れたことのない場所の場合は“散歩幻想”が頭の中に沸き上がると言えばいいだろうか。たとえば代々木界隈(小田急南新宿駅周辺)について、磯田さんもかつて住んでいたそうだが、「裏通りの家並みや町並みが、こんなにムードのある町だとは……」と再認識されており、その驚きがイラストからも伝わり訪れたくなる。荒木経惟さんもしばしばこのあたりをロケに訪れるのだそうだ。
東京は坂の町で、磯田さんがスケッチに訪れた町も風情のある坂道が多い。それら坂道のスケッチも多く収められているのだが、坂の傾斜の雰囲気を描くのはことのほか難しいらしく、愚痴めいた苦労譚も披露されている。
たしかにカメラに収めるにしても、自分の目で見たり足で歩いたりした坂道の実感をうまい具合に表現することができない。でも磯田さんのイラストは、苦労したとは言えそこはさすがにプロ、見事に坂道の雰囲気がイラストに表現されているのだった。
文章は描き文字のようなフォントで印刷されており、これもまたユニーク。最初は文字まですべて手書きなのかと思ってしまった。