成田屋三代へのオマージュ

海老蔵そして團十郎

この5月、6月は歌舞伎座で十一代目市川海老蔵襲名披露が行なわれる。何かと話題の新之助が祖父・父と受け継がれた「海老蔵」を襲名する檜舞台ということで、5月のチケットは困難をきわめたすえ、昼の部・夜の部ともかろうじて確保できた。たぶん6月もたいへんなことになるにちがいない。
私は新之助の歌舞伎役者としての芸を高く評価することにやぶさかではない。成田屋の家に彼のようなタレントが生まれたことは奇跡的だし、彼と同じ時代の空気を吸えることを感謝したいほどだ。いずれ十三代目團十郎を襲うことになる人物の新之助時代からの芝居を観ているというのは、将来ひとつの自慢になるのではあるまいか。
そんな私とは逆に妻は新之助に対して厳しい。本職の歌舞伎は脇において、記者会見などでの態度の悪さがどうにも許せないらしい。新之助に批判的な人はたぶん同じ考えなのだろう。その“アンチ・新之助”の人間にチケット確保のための電話予約をお願いし、一緒に観に行く予定なのである。襲名披露を観るひそかな楽しみとして、この“アンチ・新之助”人間がどんな顔をして芝居や口上を観るのだろうと観察することがあることは、口が裂けても本人の前では言えない。
私は芸が素晴らしければ多少のやんちゃは許すべきという考え方で、新之助海老蔵には寛容である。ただこれは相手が新之助という天性の歌舞伎役者だからであって、自分の周囲にこんな人間がいたら、たとえその人物が優秀であっても許容できない。
関容子さんの新著海老蔵そして團十郎*1文藝春秋)は、関さんならではの聞書と思い出話、鋭い歌舞伎評がまざりあった面白い成田屋三代記だった。潔癖で控えめで融通が効かない真面目な十一代目團十郎は、「海老さま」ブームを巻き起こしたほどの美男であった。新之助は隔世遺伝と言われるほどこの祖父にそっくりだという。本書でもいかに新之助の性格や芸に向きあう姿勢が祖父に似ているか、多くのエピソードが紹介されている。
やはり私としても、観たことがない十一代目、さらにその前の世代の美男役者十五代目羽左衛門の姿を新之助の芸から見て取ろうとする。新之助が注目の役者である以上、彼が慕う祖父十一代目も関心の対象となるわけだ。本書も最初はそうした興味で読み始めた。ところが読んでいるうち、隔世遺伝の二人をつなぐ重要人物、現十二代目團十郎にすっかり惹かれてしまったのである。
十二代目は、父や息子のように生まれながらにして御曹司という立場ではなかった。父は当初妻と子供2人(妹がいた)を世間から隠して暮らしていたのである。だから十二代目は自分が歌舞伎役者の息子とは知らずに育ち、結婚が公にされるやいなや成田屋の御曹司として7歳で初舞台を踏むことになる。しかも新之助を名乗っていた大学一年のとき父が亡くなり、後ろ盾を失ってしまう。こんなある意味「不幸」な境遇におかれながら、十二代目は父とも息子とも違う、懐が広くおっとりとして悠揚で暖かい人柄で歌舞伎ファンに愛されている。
印象深いのは、新海老蔵襲名の記者会見で、海老蔵と言うべきところ間違って「十一代目團十郎」と言ってしまい、「えらいこっちゃ」とにこやかに訂正して場内の笑いを誘っていたシーンだ。本書にもこの場面は登場するが、現團十郎の人柄を彷彿とさせるエピソードだろう。
この十二代目にまつわるほのぼのとしたエピソードが何とも面白い。
朝食のとき好きな目玉焼きを最後まで残しておいたら、隣で癇癪持ちの父が癇癪を起こして母と喧嘩になり、卓袱台をひっくり返してしまったために目玉焼きを食べることができなかった。それで堀越夏雄少年(十二代目の本名)が得た教訓は「好きなものから先に食べる」
また十二代目は荒事の出の前や家を出るとき、いつも真言を唱えるとのこと。新之助も最近父にならってそうするようになったが、自分より真言を唱える時間が長い。訊いてみると代々の團十郎一人一人に対して唱えているから十一回唱えてるのだという。これを知った父親は…、「近ごろ私も……真似してます(笑)」。いいなあ、この話。
十一代目も凝り性で勉強家だったようだが、子供も孫もその血を受け継いでいるようだ。本書で紹介される十二代目の聞書からは、その並々ならぬ勉強ぶりがうかがえるし、新之助も初役に挑戦するさいには資料を揃えることから入るため、奥村書店四丁目店の「一番のお得意さま」なのだという話のほか、芸熱心ぶりがわかる話に事欠かない。
十二代目は俳句もよくするとのこと。自らの新之助襲名時、久保田万太郎祝詞に添えて一句詠んでくれた。

薫 風 や 夏 雄 改 め 新 之 助
これに対する十二代目のコメントがおかしい。
唖然としますよね(笑)。子供ごころに、何だこりゃ、と思いましたから。親父は有難がってましたけど、万太郎さんのお名前で目がくらんじゃうんですかね。(48頁)
こんなふうに率直に物を言う十二代目の人柄がますます好きになった。
本書は当事者たる團十郎新之助親子、また團十郎の妻・新之助の母親である希実子夫人、さらに長年三代の弟子として仕えている市川升寿その他のお弟子さん方、また役者仲間である富十郎勘九郎三津五郎という成田屋を取り巻く様々な人びとへの取材から成った実に読み甲斐のある本だった。
装幀も関さんの本をずっと担当されている和田誠さんによる、定式幕の三色と舞台写真を使ったシンプルなもの。少女時代から「海老さま」ファンだったという関さんによる、成田屋へのオマージュは素晴らしいできばえである。