第58 荻窪散歩に悔いあり

旅館西郊

このところ中央線沿いの町に行くときはかならずといっていいほど好天で、頭上には気持ちいい青空が広がっている。まるで川本三郎さんの『東京の空、今日も町歩き』*1講談社)の森英二郎さん描くカバーイラストにあるような空で、中央線沿いの町に対する憧憬は訪れるたびに大きくなっている。
中央線沿いの町を訪れるといってもたいていは阿佐ヶ谷で、駅前近くにある映画館ラピュタ阿佐ヶ谷に映画を観に行くのである。「いい映画を観たなあ」といい気持ちで映画館を出て空を見上げると清々しい青空が広がり、ひとつぶらぶら歩こうかという気分にいつもさせられる。ラピュタ阿佐ヶ谷を訪れた日が雨に見舞われた記憶がない。中央線沿い住人でない人間の特権だが、私にとって雨と中央線は結びつかない。
さてこの週末は午後から成瀬巳喜男特集を観る予定を立てていた。整理番号付チケットは午前10時15分から発売される。席数48と小さな映画館で売り切れの可能性もあるけれどいままであまりそうした経験がないから、まあ気にすることはない。ただ入場が番号順なので、端に座りたい人間としては早めの番号を手に入れておきたい。早めに行って、映画の始まる13時まで散歩して時間をつぶせばいいではないかと、発売時刻30分過ぎに映画館にたどりついた。番号は13時からの「旅役者」が05番、15時からの「妻」が07番だから焦る必要はなかったのだけれど。
空き時間は昼飯の時間を見込んで、隣町の荻窪まで歩き、久しぶりにささま書店でものぞこうという計画を立てていた。そのつもりで荻窪を特集した雑誌のバックナンバーをめくりかえしていたら、阿佐ヶ谷から荻窪に歩く途中に「旅館西郊」があることを知った。
前記の本で川本さんが宿泊し(「子供時代の思い出と歩く「阿佐ヶ谷」「荻窪」」)、また泉麻人さんも『東京ディープな宿』*2中央公論新社)の第1回(「中央線の町の洋風ロッヂング―荻窪・旅館西郊」)はここを選んだほど、その筋では有名な建物である。最近読んだ本では、植田実さんの『集合住宅物語』*3みすず書房)もこの建物に触れている。そう、ここはいまでこそ「旅館西郊」と宿泊施設となっているが、かつて昭和6年に建てられた当初は賄い付き高級下宿「西郊ロッヂング」だったのだ。
阿佐ヶ谷駅南の車一台がようやく通れるような狭い道を西へ歩くと、文化女子大学附属高校に突き当たり、そこから南に折れると青梅街道にぶつかる。青梅街道沿いに西にゆくと中央線を跨ぐ天沼陸橋だが、今回は陸橋手前で左に入り線路と並行する南の道路を荻窪駅方面へ向った。青梅街道とその道がY字路になっているちょうど股の部分にラーメン屋「二郎荻窪店」を発見する。
歩きながら横丁をふと見ると、目当てのひとつ「旅館西郊」が目に飛び込んできて、予測していなかっただけに驚いた。閑静な住宅地のなかに突如出現した異様な丸ドーム屋根が目立つ。写真を撮り周囲をうろうろ歩いてもとの道に戻り、荻窪駅南にあるささま書店を目指す。するとなんと店はシャッターを下ろしているではないか。日曜休業とは聞いていないのでたぶん午前中早すぎたからだろうと、また旅館西郊のほうへ引き返した。
西郊の前の通りを南に一、二分歩くと鬱蒼とした木々に囲まれた空間に出くわす。太田黒公園である。音楽評論の草分け太田黒元雄氏の邸宅・庭園が氏の没後杉並区に寄贈されそのまま公園化された場所で、広々とした芝生と日本庭園の片隅に洋風の住居がぽつりと佇んでいる。
住居は現在記念館として水土日に一般公開されており、入ってみると氏が書斎として使用していた洋間には古いピアノが置かれ、また応接ソファも豪華で、天井までとどく造り付けの書棚が壁一面にある様子にため息がもれる。東南方向に緩やかに低くなっている斜面に日本庭園が広がり、一番低い場所に池がある。池端のベンチに座ってしばらくぼんやりと景色を眺めていた。川本・泉両氏ももちろんここに足を運んでいる。
さて気を取り直して11時30分過ぎにふたたびささま書店を訪れてみると、もう遠目から開店しているのがわかった。店頭本の棚に人が群がっていたからだ。今回は珍しく購入本がなかったけれど、ついこの間出たばかりの本(購入を迷っていた)があったり、やはりこの古本屋の品揃えは素晴らしい。
ささま書店のすぐ近くにラーメンの名店丸長があるが、ささま書店を再訪したときは開店直前だったらしくすでに長蛇の行列。帰りに見てみると、行列していた人びとが全員店内に入り黙々とできあがるのを待っているらしい。その図が何となくおかしい。さらに阿佐ヶ谷方向に引き返して荻窪二郎をのぞくとここも行列。時間も限られているので来た道を阿佐ヶ谷駅まで戻り、同駅前で昼飯を食べる。
観た成瀬映画は「旅役者」「妻」の二本。もとより名作の誉れ高い「妻」を観たいと思ってこの日に照準を合わせていたのだが、同じ日に上映される「旅役者」に高勢実乗が出演していることを知り、これも観ておこうと思った。高勢は色川武大さんや小林信彦さんのエッセイで知る人ぞ知る怪優「アノネのオッチャン」である。
「旅役者」は、旅回りの「六代目中村菊五郎」一座(「六代目菊五郎」という宣伝に田舎の人は騙されるのがおかしい)で、馬のぬいぐるみに入る役者である藤原鶏太と柳谷寛を中心としたほのぼのとした映画。高勢は座長の中村菊五郎役。細身ながら貫禄のある座長の役柄で、意外にまともだった。どの時点で芸風が「アノネ、わしゃカナワンヨ」に変わるのだろう。
期待の「妻」は期待どおり、と言いたいところだが、意外に重たい映画だった。テーマは不倫。倦怠期夫婦の上原謙高峰三枝子。高峰が箸の先を爪楊枝がわりにして歯に挟まった食べかすを取ってお茶でうがいをしたり、高峰の振る舞いに上原が苦い顔をするシーンが笑いを誘う。
相変わらず風采のあがらない役が似合う上原謙だが、職場の同僚で子持ち未亡人のタイピスト丹阿弥谷津子とデートを重ねるうちに好きになってしまう。上原・高峰・丹阿弥の三角関係の泥沼が展開し、間に入った高杉早苗にも匙を投げられる。結局高峰に詰め寄られた丹阿弥は嫌気がさして上原と別れ自立の道を歩む。風穴があいたまま取り残された夫婦はさてこのあとどうなるのかというところで物語は終わる。どうにも明るくない。
同じ上原謙が出演する倦怠期夫婦の物語であれば原節子との共演「めし」がいいし、また倦怠期夫婦物の傑作としては佐野周二原節子の「驟雨」の明るさを採る。高峰の剣のある表情と丹阿弥のおっとりと清楚な雰囲気が対照的。また夫婦の家に間借りするキザな芸大生役の三國連太郎がいい味を出している。やはり二階に間借りしていた銀座のバーのママ中北千枝子は自立心旺盛で前向きな女性。中北のこうした明るい役を観たのは初めてかもしれない。
帰宅後上掲川本さんの本の該当部分を拾い読みしたところ、行く前に読んでおくべきだったことを悔やんだ。阿佐ヶ谷から荻窪へ歩いたとき、青梅街道の天沼陸橋に向かわず線路の南に並行する道に入ったと書いたが、その天沼陸橋から中央線を見下ろした景色こそが、川本さんの本のカバーイラストのモデルになっていると思われるからだ。

この陸橋にも思い出がある。完成したのはたしか小学校の六年生の時。友人たちと早速、見に行った。当時はまだ周囲に高い建物はなく、橋の上に立つと、杉並区の住宅街がどこまでも広々と見渡すことが出来た。そのなかを中央線のレールがまっすぐに走っている。鉄道の線路が「まっすぐ」なのが子供心にうれしかった。
いま陸橋の上に立っても、この「まっすぐ」は変わっていない。(133頁)
このページにはすでに細かく切った短冊が挿まれているから、すでに私は表紙イラストがこの文章に由来することを察知していたはずなのだ。まったくもって惜しいことをした。いずれラピュタ阿佐ヶ谷にまた訪れる機会もあろうから、そのときこそ天沼陸橋を歩いて「まっすぐ」の中央線の眺めを楽しみたい。そういうときに限って雨降りの天気だったりして。