入れ子状の集合住宅

集合住宅物語

36年の人生のうち、大学入学までの18年と数ヶ月は一戸建ての実家に住み、その後18年は親元を離れ、今に至るまでいわゆる「集合住宅」住まいを続けている。この4月で一戸建て住まいと集合住宅住まいがほぼ半々になるわけで、これを境に集合住宅暮らしの期間が一戸建て暮らしの期間を追い抜き、引き離してゆくことになるだろう。
ひとり暮らしを開始し仙台で暮らしていた時期は、集合住宅住まいはごく当たり前のことと受け止め、何の疑問も感じなかった。集合住宅暮らしを意識したことがなかったと言ってよい。
ところが結婚して東京に移り、家族が増えるにつれ、自分が集合住宅住まいであることを強く意識するようになった。一戸建てへの憧れというわけではないけれども、やはり“一戸建て>集合住宅”という単純な上昇志向のごとき気持ちがないというと嘘になる。
植田実さんの新著『集合住宅物語』*1みすず書房)を読んだ。読後、ひとくちに集合住宅といっても後述のように多種多様であり、一戸建てに劣らぬ可能性、魅力を秘めていることがわかり、私のなかでの集合住宅と一戸建ての距離はだいぶ縮まってきた。

本書は『東京人』に連載されていたもので、連載時からの写真家鬼海弘雄さんの写真とともに、美しい本に仕上がった。ただその分少し値が張るけれど(本体3800円)。鬼海さんの写真は見て思わずうっとりしてしまう美しさで、光線の柔らかな具合やら、その光が微妙に黄色い色合いをおびている感じ(書影の写真からもそれを感じ取っていただけるはず)など絶妙である。
本書は戦前編・戦後編二部立てで、建築史・生活史的に重要な意義を有する特徴的な近現代日本(東京・横浜地域)の集合住宅が論じられている。集合住宅といっても、いわゆるアパート・マンションだけに限らない。長屋、団地、連棟住宅(接地型集合住宅=テラスハウス)、下宿、寮(寄宿舎)、社宅、コーポラティブ・ハウスなどさまざま。
近代日本の集合住宅といえばまず想起するのは同潤会で、本書でも最初のほうで同潤会各アパートが論じられている。同潤会といえば無条件で懐かしく素晴らしいと思ってしまう“同潤会至上主義”に毒されてしまっていたのだが、以前読んだ内田青蔵同潤会に学べ』→2/26日条)や本書を読むと、日本の集合住宅は同潤会ばかりではないという、“同潤会至上主義”を相対化する視点が身につく。
本書の特徴は、対象となる集合住宅がいかなる考え方のもとに建てられ、住まわれているのかという点に視座が絞り込まれていることで、たとえばその住宅が建っている場所(「地霊」と置きかえてもいい)との関係は考慮の外にある。私はむしろ土地との歴史的関係という点に興味を持つ人間だが、逆にこの住宅が東京のいったいどこにあるのか、そんな情報が必要最小限にとどめられている本書の姿勢がすこぶる新鮮だった。
帯には「生活史としての「建築遺産」の記録」とある。建物の外面でなく、生活の堆積が「建築遺産」としての価値を帯びた物件ばかりなのである。
高島平団地など、一般的にはマイナスの側面で語られることの多い団地に対しても、積極的にプラスの評価を見いだそうとしている点にも目から鱗が落ちた。その高島平団地を論じた一文は、こう締めくくられている。

集合住宅とは、東京の同義語でもあった。(253頁)
東京の、しかも集合住宅に住むわたしたちは、さしずめ入れ子状の集合住宅に住んでいるということか。時間を経るにしたがって集合住宅に暮らす人びとに余裕が生じ、彼らのネットワークの緊密化によって集合住宅そのものが熟成され容易に取り壊しがたくなるように、東京という集合住宅も住むものに愛着を持たれるようになるのだろうか。