歴史的に見るべからず

日本美術応援団

私は絵を鑑賞するのが嫌いではない。さげすまれ、あきれられ、見放されるのを覚悟でいえば、歴史展示がなされている博物館よりも美術館の空間にわが身を置いたほうが断然落ち着く。
絵画の見方は人それぞれであって、これ、という作法があるわけではないだろう。どんなふうに見、感じてもいいはずである。
しかしながら私の絵の見方はお世辞にも自慢できるものではない。ブッキッシュな性分ゆえ、澁澤龍彦のように本で見た絵を追体験するといった見方であり、絵の本質を見ていない(澁澤は本質を見ているだろう)。見終えたあともその絵に触れた文献を求めようとする。文献依存症というべきか。寄りかかる何者か(本)が常にかたわらにないと不安なのだ。だから絵に何を感じるのか、絵のどんなところが面白いのか、ではなく、「その絵を見た」という事実が優先する。
こう気づいて態度をあらためたからといって素直に絵を眺め、感じることが即身につくかといえば、無理だろう。わたしたちは情報に取り囲まれ、縛られているのだから。絵を見たという事実をひたすら積み重ねているうち、自分なりの絵の見方ができればいいや、といまはそう諦観している。
赤瀬川原平さんと山下裕二さんの日本美術に関する対談集『日本美術応援団』*1ちくま文庫)が出たのでさっそく読んだ。西洋美術一辺倒だったのがこのところ日本美術へ傾きかけている私としては、水墨画日本画、さらに日本人画家の洋画だけでなく、縄文土器から漆器、彫刻、庭園までを「日本美術」というくくりで鑑賞しようというお二人の姿勢に感化を受けないわけにはいかなかった。
お二人は本書を通して、美術品の現物をナマで見ることの重要性を繰り返し主張する。「そう言われてもなあ」と苦々しく思う人もいるに違いない。その点東京にいて名品をナマで鑑賞する機会の多い私は恵まれているほうだろう。むろん名品は地方にも多い。実際お二人はナマの名品に触れるべく日本各地を飛び回る。
本の図版でなく、現物に接することで得るものは多い。最大の収穫の一つは、対象物の大きさ(小ささ)だろう。図版で見るかぎり大きいというイメージを持っていた絵が実物はかなり小さくて意外だったり、その逆だったり。
たとえば本書で紹介されている絵で言えば、青木繁の代表作「海の幸」。大作というイメージを抱いていたが、お二人が実物を見ている写真(110頁)を見ると意外に小さい。縦70.2cm×横182cm。赤瀬川さんも「等身大位の絵だと思っていたんですけどねえ」と語る。
この青木繁の章では、本書のキーワードの一つ「乱暴力」が頻出する。緻密な計算に基づいて絵を描くのでなく、思いつき、感性で描ききってしまう力。尾形光琳の章では藤森照信さんが引きあいに出されている。
山下裕二さんは「あとがき」のなかで、絵を「歴史的に見ない」快感を推奨している。これは大切な提起だ。「歴史的に見る」とは、つまりその絵画に関する学問的情報をインプットしてから見る専門家的なまなざしのこと。山下さんはそれに反旗を翻した。赤瀬川さんとの出会いが、むくむくともたげかけていた「歴史的に見ない」ことへの憧れを決定的にしたという。
「歴史的に見ない」。すなわち先入観なく素直な目で絵を鑑賞すること。本書における二人のまなざしはこれに尽きる。佐伯祐三の章では、佐伯の絵に必ずつきまとう真贋問題について、「別に贋作だっていいんですよ。絵として面白ければ」(山下)と断ずる。この発言が本書の姿勢を象徴している。