「編集者による回想録」の時代

追憶の作家たち

宮田毬栄さんの新書新刊『追憶の作家たち』*1(文春新書)を読み終えた。
宮田さんは中央公論社の元編集者で、『海』『中央公論文芸特集』の編集長、中公文庫副室長などを歴任された女性である。旧姓大木。父は詩人の大木惇夫。編集者になる素質はあったというべきだろう。この本が出ることは新刊情報などで知っていたが、その時点では著者の名前を意識していなかった。先日読んだ阿刀田高松本清張あらかると』(→17日条)に収められている鼎談の参加者の一人が宮田毬栄さんで、その名前が刻み込まれたのだが、直後本書の著者がその宮田さんであることを知ったという偶然に驚く。
本書ではその松本清張のほか、西條八十埴谷雄高島尾敏雄石川淳大岡昇平日野啓三の7人の作家を対象として、編集者としての著者と彼らとの関わりがつぶさに回想されている。これまで読んだ大村彦次郎さんや豊田健次さんの場合、主として「中間小説」の作家たちの回想だったので、本書で取り上げられる作家のラインナップと重複がなく、初めて知る作家のエピソードや、一つの作品を生み出すための作家と編集者の共同作業のありさまを知ることができ、興奮して読み進めた。本書には読む者をぐいぐいと読み進めさせる力がある。
このなかで印象的なのはやはり松本清張だった。鼎談でも語られているエピソード(打ち合せに大きく遅刻した宮田さんは清張から銀座和光に連れて行かれ、時計を買ってもらった話など)のほか、興味深い話に満ちている。
宮田さんが最初に担当した本は『黒い福音』で、当時中央公論社が出していた『週刊コウロン』という週刊誌に連載された。締切に間に合わない、今週は休ませてほしいという清張からの電話に、すでにもらった分の原稿で活字が半分組み上がっているから駄目と返事すると、なお清張は組み版は壊してかまわないから休ませてと懇願する。そこに宮田さんは決然と宣告する。

「かまわないですって? 先生はよくても、こちらは困るんです。でも、そんなふうに言われるなら、来週先生が大日本印刷に来て活字を拾ってね!」(21頁)
天下の松本清張に自分で活字を拾えと言い放つ強さこそが、編集者としての宮田さんを支えたものだったのだろう。
鼎談のなかで一時清張が中央公論社と疎遠になったとあって、その理由がわからなかったのだけれど、本書を読んでそれが氷解した。中央公論社の文学全集『日本の文学』で落とされたということがきっかけらしい。編集委員の一人三島由紀夫が強く反対したのだという。
中公には清張全集の企画があったのだが、これで立ち消えになり、全集は文藝春秋から出されることになった。これが火種となった清張の激烈な三島批判、純文学批判のくだりは読み応えがある。三島と清張、たしかに相容れそうにない。
『海』で思い出すのは、その編集者だったヤスケンこと故安原顯さんと村松友視さん二人のこと。本書では、島尾敏雄の章でこのうちの一人安原さんのことに触れられている。本書では「Y氏」となっているが、安原さんだろう。
読むと、宮田さんとY氏との間には深い確執があり、いまだに宮田さんは彼を激しく嫌っていることがわかる。島尾敏雄はこの二人の仲を仲裁しようと心を砕いたのだが、うまくいかなかった。島尾敏雄を語るべき文中、主題を外れてまで激しいY氏批判を書きつけなければならなかったのは、没後彼が「文芸ジャーナリズムの世界で美化され、伝説化されようとしている」ことへの強い不満があるとおぼしい。
宮田・安原両氏の確執を知り、あわてて村松友視さんの中公編集者時代の回想『夢の始末書』*2ちくま文庫)をめくってみた。かつて読んだが宮田さんの記憶がなかったからだ。しかしながら探し方が雑なのか、結局宮田さんのお名前を見いだすことができなかった。より詳しい別著『ヤスケンの海』を手放してしまったのでこれ以上のことを確認することができない。村松さんはむしろ『ヤスケンの海』などで「伝説化」を推進する旗頭だから、宮田さんと村松さんとの間にも確執めいたことがあったのかもしれない。
このY氏批判のくだりは感情的に過ぎ、後味が悪く胸にざらつきを残す。とはいっても、このざらつきは本書全般の面白さによって掻き消されるのが救いである。
前にも名前をあげた大村さんといい豊田さんといい、今度の宮田さんといい、また宮田さんの姉藤井康栄さんといい、このところ次々に刊行される編集者の回想に外れはなく、ことごとく面白い。皆優秀で筆が立つということもあるだろう。しかしその面白さを支えているのは、回想される対象としての作家の魅力にあり、またその作家と編集者の関係に立ち込めていた濃密な緊張感にあるものと思われる。だいいち、先に引用した宮田さんと清張の会話にあるように、「活字を自分で組んでください」といった脅し文句は、現在では通用しない。
むろんこのやりとりは上述の考えの根拠とはならない些末事である。しかしメールやファックスで原稿送信が行なわれている現在、作家と編集者の関係は稀薄化のいっぽうをたどっているのではあるまいか。
数十年後、現在活躍している作家について彼らを担当した名編集者による回想が読者に受け入れられるものとなっているかどうか、そもそもそんな本が出るのかどうか、疑問を感じざるを得ない。わたしたちは“編集者による作家回想”という出版文化の一ジャンルを享受しうる最後の時代を生きているのかもしれない。