俳句と人生

俳句的生活

あまり俳句と縁のない人間が「俳句的生活」という言葉を目にしたとき、まず頭に思い浮かべるイメージは何か。“俳句を詠むことが日常になっている生活”なのか、はたまた“俳句のような生活”なのか。
前者であれば、まあわかりやすい。でも“俳句を詠むことが日常になっている生活”をわざわざ「俳句的生活」と置き換えることに意味があるとは思えない。対する後者の場合、そもそも“俳句のような生活”とは何なのか、次なる疑問がわき上がる。五七五という世界でもっとも短い詩型の文学的営みになぞらえられる生活とはどういうものなのか。人間生活を、言葉を慎重に選び、削り、並べることで一つの世界を現出させる句作と同一次元で考えるとはどういうことなのか。
俳人長谷川櫂さんの『俳句的生活』*1中公新書)は、タイトルだけで読む者をこのような世界に導いた時点で成功は約束されたと言ってよい。
本書は「切る」「生かす」「取り合わせ」「捨てる」といった句作のさいのキーワード、「庵」「俳」という俳句に関係する言葉、「時間」「習う」「友」「平気」「老い」といったどちらかといえば生活・人生に関わる言葉をそれぞれ冠した全12章からなる。
静かさを感じる抑制された文体で、古今にわたる数多くの俳句を紹介しながら、俳句が生活にいかに関わるか、俳句と人間生活の共生について説かれている。新書にしてはなかなか重い内容である。
谷崎の『細雪』論でもある第三章(「取り合わせ」)や「陰翳礼賛」に触れた第六章(「庵」)、晩年の谷崎に触れた第十二章(「老い」)には、著者の谷崎に寄せる愛着が伝わる。「あとがき」によると谷崎は著者が「敬愛する」作家とのこと。とりわけ第三章には“書巻の気”が満ち、未読の『細雪』に対する興味が増した。
本書で著者が言いたいことは、第五章(「捨てる」)あたりに集約されているように思われる。引っ越しにあたり蔵書の多くを処分した経験に触れ、あるひとつの結論に達する。

大半の本を売り払って解放感を味わったというのは身辺がこのとおりすっきりしたからばかりではない。大事と信じて疑わなかった本を捨てる。これがなかなか爽快なのである。本を後生大事にしているということは本に縛られているということである。本は紙でできているから紙という物に縛られていることになる。紙であれ何であれ物に縛られるほど愚かなことはない。本を捨てるということは本の呪縛を破って自由になることだった。(98頁)
「本の呪縛」にいまだがんじがらめになっている私は、このくだりを読んで動揺せざるをえない。つまりは物にこだわるなということであるが、一度本(物と言い換えてもいい)に魅せられてしまった人間は、なかなかそうした境地に達することは難しい。
俳句は十七音しかない。いいたいことの大半は潔くか嫌々ながらか、どちらにしても捨てなければならない。いいたいことにこだわっていては俳句にならないからである。いいたいこと、いいかえると自分自身へのこだわりを捨てることが俳句にとっては大事である。(106頁)
俳句を詠むことは自分の言いたいことを捨てる(絞り込む)という苦渋の決断の繰り返しである。俳句を詠む営みを重ねるにつれ、自分自身へのこだわりを捨てるという身のこなし方がわかるようになる。生き方のアナロジーとして俳句が捉えられる。
俳句という型式のこの特徴が俳句を詠む人の生き方に影響を及ぼすことがある。反対に、そうした考え方の人が俳句という型式に魅せられるということだろうか。(106頁)
ときどき十七音の言葉にいまの感慨を込めたいという気持ちになることがある。十七音にまとめようと、自分の気持ちや見聞きした風景を泣く泣く捨てることもある。しかしいまのところそれが「物に縛られた」自分の生活を解放するところまで影響していない。俳句が人生に越境するまではまだ時間がかかりそうである。