「家族の歴史」の終着点

送り火

重松清さんの連作短篇集送り火*1文藝春秋)をようやく読み終えた。「ようやく」という言葉には、昨年11月に新刊で出たときに即購入し、今年1月に読み始めていながら、また、重松さんの作品に強く惹かれていながら、という意味が込められている。この間重松作品を読むのに気が進まなかった時期もあったので、このようなことになってしまった。
その間にも次々と重松さんの新著が刊行されている。ノンフィクションは除いても(このジャンルで読んだのは講談社文庫の『世紀末の隣人』(→2003/12/16条)のみ)、『さつき断景』*2祥伝社文庫)と『卒業』*3(新潮社)、『口笛吹いて』*4(文春文庫)と3冊もの短篇集が出てしまった。
これらを読むためには、まずいま読みさしの『送り火』を片づけねばならない。そんな外的要因も手伝って長らく居間のテーブルに置きっぱなしだった本書を取り上げ、読むのを再開した。
するとこれがやはり面白いのだ。一篇一篇、数行読んでいるうちに物語のなかにいつの間にか惹き込まれ、ふと気づくと夢中で読みふけっている自分を発見するという繰り返し。しかもこれまた読んでいて熱いものがこみあげ、何度本を置いて読むのを中断したことか。現代における家族小説の最良の書き手として、重松清という作家は屹立している。
本書は帯に「著者初のアーバン・ホラー作品集」と謳われている。“アーバン・ホラー”とは聞き慣れない言葉だが、全9篇を読むと、東京という都市を舞台に、日常の裂け目からふと覗く非日常の幻想という程度の内容と考えていい。
「ホラー」というと、たしかに最初の2篇「フジミ荘奇譚」「ハードラック・ウーマン」にはホラー的要素があって、背筋が寒くなるような仕掛けがほどこされているけれど、世のホラー好きがこれを読めば、子供だましの怖がらせと鼻で笑うに違いない。正直申せば、私はこの2篇にただようホラー的要素にあざとさを感じたこともあって、読むのが途中になってしまっていたということもある。
作者としてはこうしたホラー的要素を含んだ都市家族小説を書き続ける意図があったのか、なかったのか。私にとっては幸いなことに3篇目の「かげぜん」からそうした要素が薄まったことにより、前述のように一気に読み終える弾みがついたのである。
さて本書収録の9短篇を貫く連作的モティーフとは、新宿から西に神奈川県県境近くまで伸びる「武蔵電鉄富士見線」という架空の私鉄路線だ。全ての短篇がこの路線の電車や駅、その駅を起点にした町を舞台にしている。
よく読むと具体的には京王線が直接のモデルになっているようだが、京王線に限らず、西郊に伸びる西武線東武線・東急線なども含め、これらの私鉄は何よりも都心の勤め先に通うサラリーマンたちの通勤路線である。仕事に疲れた男たちを運び、また「郊外の一戸建て」という家族の夢をも運ぶ。
帯裏にある作者の言葉のなかに次のような一文がある。

電車の中に乗客それぞれの暮らしがあり、窓の外にも無数の暮らしがある。あたりまえの話なのに、いや、あたりまえだからこそ、気おされたじろいでしまうような重みがある。その重みを噛みしめながら電車にゆられているうちに、一つ、また一つと、ささやかな物語が浮かんできた。
こうした想像力を働かせてくれる作家の作品であれば全幅の信頼を寄せたいと思う。
幼ない息子を亡くした夫婦の哀しい物語「かげぜん」ニュータウンのなかのマンションに新しく越してきた若い母親が“公園デビュー”の不条理を味わう「漂流記」、飛び込み自殺を未然に防ぐことを職務にする駅員とその元同僚の物語「よーそろ」、閉鎖された遊園地に接した団地の一室にひとり暮らしする母に同居を勧める娘が、その団地を購入するために無理して働いた結果早世した父親の幻影と出会う送り火、夫婦喧嘩で家出した中堅サラリーマンが、過労のため駅のホームで急逝したものの「家族の待つ家に帰りたい」という思いを抱いたまま成仏できない男の幽霊と出会う「家路」、路線の終点の先にある霊園に墓所を購入する人びとの様々な想いを描く「もういくつ寝ると」…。
いずれも「窓の外」にある「無数の暮らし」の風景の一つであり、そこに現代における家族の風景が鋭く切りはめられている。「あり得る話」と身につまされ、自分や自分の家族を作中の人物に重ね合わせながら読んでいるうちに目頭が熱くなった。
本書が墓場をめぐる「もういくつ寝ると」で締めくくられているのは何とも象徴的だ。この霊園は路線終点からバスで行く場所にあるという、私鉄路線を舞台にした連作の地理的結末としても、また墓場という人間およびその集団としての家族の終点としても、まことに巧妙と言わねばなるまい。
三十年前にあの街にいた三人家族は、家族の歴史の終わりに、ここに墓を建てる。
その隣に建つ墓は、まもなく途切れてしまうはずの家族の歴史を、何十年か先にもう一度つなぎ直すための「我が家」だった。(「もういくつ寝ると」、374頁)
墓所もまた「家族の歴史」を象徴的に示す場所であり、そこを買うことが「マイホーム」を購入して安息の場所を得ることと同一次元で理解されるという時代にわたしたちは生きているということだろう。