紳士たるもの

吉行淳之介エッセイ・コレクション1 紳

ある日のこと。頭痛のきざしがあったけれど、いっぽう飲みたい気分でもあって、「ええい、飲んでしまえ」と、ふだんと同じく350mlの缶ビール2本を飲みほした。寝てしまえば翌朝にはたいてい頭痛はおさまっているのである。
ところが、というかやはりというか、夜中寝ながら頭痛がひどくなっていくのを感じ、いよいよ我慢できなくなった。いつもの「大頭痛の日」が到来したかと脂汗を流しながら痛みをこらえていたのだけれど、そこに吐き気も加わってきた。
あれ、こんな気分、どこかで味わったことがあるぞ。と思い出してみるとこれは二日酔いの気分の悪さと同じ。ひょっとして…。
たしかに体調万全でなかったが、缶ビールたった2本でひどい二日酔いになってしまうとは情けない。しかしこれを体調の問題にしてしまったり、酒量が落ちたと嘆息するのも違うような気がする。泥酔する前に気分が悪くなるという体質の私は、そもそも下戸というべきかもしれない。少なくとも上戸とは言えまい。
「東北生まれだから強いんだねえ」とおだてられ、「いやいや」と謙遜しながら自分もその気になって飲んでいると、あれあれいつの間にか気分がおかしくなってくる。そんな繰り返し。結局30代半ばを過ぎてもいまだわが酒量の限界を知らぬ「コドモ」なのか。
酒を飲んで醜態をさらす者こそが「若者」であって、そんな経験を重ねていくうちに節度をわきまえた飲み方ができるのが「大人」であると吉行淳之介さんは言う。

醜態を繰り返しているうちに、酒の良さ悪さが、自ずから分ってくる。自分の適量も、分ってくる。私のいう適量とは、乱暴を働いたり吐いたりする寸前の酒量である。
ただし、適量は「酒なら五合、ウイスキー水割りなら八杯、ビールなら六本」というふうにきっちりとは決まらない。一升飲んでも平気な男が、二合でツブれることがある。
醜態を繰り返していると、そのへんの微妙な按配が本能的に身についてくる。
以上は『sumus』同人荻原魚雷さんが編集された吉行淳之介エッセイ・コレクション1 紳士』*1ちくま文庫)に収録されている「酒の飲み方」なるエッセイの一節である。
去年吉行さんの病気エッセイアンソロジー『淳之介養生訓』*2(中公文庫)を読み(旧読前読後2003/7/10条)、以来少しずつ吉行さんの作品を集めだした。年頭、今年本格的に読むことになりそうな作家として吉行淳之介の名前をあげたが、何とタイミングのいいことか。ちくま文庫からエッセイ選集が出始めるとは。
本書にはタイトルにもあるように「紳士」について語ったエッセイが集成されている。紳士、ひいては男としてのエチケットやおしゃれ、また酒の飲み方や女性との付き合い方に関する吉行風方法論がこれでもかと展開されている。私は吉行さんのことは「女性にもてた作家」といった大雑把な印象しか持っていないが、それにしても次のような言説は空恐ろしくて私にはとても言い出せない。
つまり、女はともすれば具体的な行為にしか感応しない種族であって、次元の高い精神的なやさしさは理解しないことが多いのである。
逆に考えると、女にモテようとするなら、じつに簡単で、男が女の次元に下がっていけばよいということになる。(「やさしさ」)
その直後に山口瞳さんの過去の同じような発言を引用して「まったくそのとおり」とする。本書を読んでいて思ったが、この麻布中学の先輩後輩の断言癖はかなり似ている。しかも非常に「危険」である。吉行さんはフェミニズムの論客たちに斬られていたように記憶するが、むべなるかな。「いわゆる進歩的女性の意見というのは、自分たちの特権を放棄するもので、自分で自分の頸を絞めているようなものだ」(「男とギャンブル」)というのでは両者に和解の道はない。私はといえば、今後も吉行さんの作品を読みつづけようと決意するのだった。
編者荻原さんは文庫カバーの略歴を見ると私より2歳お若いではないか。もっと年上の方だと思っていたので驚いた。