読みかけの本を後回しに

関西赤貧古本道

ただ言えることは、そのときすぐ読みだせるような本、読みかけの本を後回しにしても読みたくなる本、そういう本と出会えれば、一番嬉しいということだ。
この発言は、「古本屋をまわったり古書目録を見たりしてどんな本を探しているのか」という問いかけに対する『sumus』代表山本善行さんの回答である。山本さんの新著『関西赤貧古本道』*1新潮新書)を読んで、もっとも印象に残った一節だった。なぜなら、そう書かれてある当のこの本こそ、いま私が読みかけの本を後回しにして読んでいる本だったから。
本書は本好き、なかんずく古本好きにとって、諸手をあげて好意的に、かつ同情的に迎えられるだろうし、ときには嫉妬をも誘うだろう。逆にある種の優越感を抱く読者もいるかもしれない。実際私は本書を読みながらめまぐるしく上記のような感情に襲われた。『sumus』の同人の皆さんが書かれている文章を読むにつけ、自分はこと「古本道」についてはまったくのアマチュアで、むしろ“新刊派”というべきなのではないかと思うようになっている。
インターネットというものは恐ろしくも魅力的なもので、読書日記を飽きずに続けているうち、このうち何人かの方とメールをやりとりしたり、直接お会いするといった恩恵に浴するようになった。しかしだからといって、この方々の域にまで到達したなどとゆめゆめ考えてはならない。このあいだには、手が届きそうで届かない無限の空間が広がっている。
本書『関西赤貧古本道』の山本さんの場合、書名に「赤貧」とあるごとく、店頭均一本好きで、そこから安く良書を探し出した思い出話にあふれている。初版本・豪華本よりも文庫本・均一本というスタンスの方である。古本屋店頭の均一ワゴンからおよそ考えられないような貴重な本を掘り出すためには、運があればいいというものではない。ワゴンにぎっしりと詰め込まれた本の山から、きらりと光るダイヤモンドを見つける眼力は、それまでの成功も失敗をも積み重ねた古本道の修養が不可欠なのだと思う。
本好きの一人として、自分がいかにある作家と出会い、本を探すことを通じてその作品世界に入っていったかという事例を、上林暁を例にとって述べたくだり(66頁以下)には、自分の同じ経験を重ね合わせながら、世界が広がるときの知的興奮を思い出してワクワクしたり、古本屋めぐりのため上京するにあたり、新幹線の車中で読む本を選ぶくだり(152頁以下)などは共感するところ大であった。
嫉妬をおぼえた箇所は数かぎりなくあるのでここに書かない。逆に一箇所だけ優越感にひたったのは、野呂邦暢の古本屋を主人公にした連作長篇『愛についてのデッサン』をインターネットで見つけ、5000円という古書価も自分にとっては破格だけれども高くはないと思い購入したというくだり(139頁)。
この本は山本さんに言わせると「古本屋で探しても探しても見つからなかった」とのことだが、私はそんなことをつゆ知らず、綾瀬のデカダン文庫で1300円で購入したのだった。もっとも同書を買った当時はそんなに稀少価値のある本だとは知らなかったのだから、筋違いな優越感ではある。いやこの本を店頭100円で購入したという人だっているかもしれない。だから古本道は面白いのだ。
先日読んだ野崎正幸さんの『駈け出しネット古書店日記』*2晶文社→1/29条)とくらべて興味深いのは、山本さんは「古本屋になりたいとは思わない」と断言していること。買う方と売る方は「警察と泥棒ほどちがう」というたとえには笑ってしまった。もちろん野崎さんのほうは生活に迫られてという事情はあるのだが、この二つの世界の壁は簡単に越えられるご時世になってはいるものの、心理的な壁がなお高く立ちはだかっている事実を突きつけられる。