映画はスター主義で

あやしい本棚

中野翠さんの『あやしい本棚』文藝春秋*1を読み終えた。「面白い本100冊+α」の書評集であるが、約3年前に出されたものであることもあって、私も読んで記憶にまだ残っている本が多い。しかも読みながら、本書が刊行されたとき、買おうかどうか迷ったことを思い出した。
この間の私は読書の好みがだいぶ中野翠さん方向に傾いた。3年前に買ったらあるいは私のアンテナにひっかからなかった本が多く、この3年は中野翠さんの世界と私との距離感を縮める意外に有効な時間だったのかもしれない。本書は古本で入手したのだが、新刊で出たときに買わずにそのまま放っておいてもこのくらい時間をおけば古本で入手できると考えると、新刊に対する執着心を少しは捨ててもいいのではないかと反省する。でも新刊を買うことが本を読む推進力になる性分だから、新刊で買いたい本は買うべきだろう。
さすがに100冊を超える本の書評ばかりを読んでいると食傷気味になる。中野さんであってもこれは仕方がない。正直最後のほうはページをめくる手もせっかちになった。
さて本書を読んでいてもっとも印象に残ったのは、映画の黄金時代を支えた映画人十人の回顧談をまとめた筒井清忠編著『銀幕の昭和―「スタア」がいた時代』(清流出版)の書評であった。
中野さんは、自分は「映画に命を通わせるのは俳優だと信じている者」だとして、次のように書く。

こういう本を読むと当時の映画監督(特にマキノ雅弘衣笠貞之助)が俳優の持つ性的魅力をどんなに重視していたかがよくわかる。スター主義が崩壊した今だってこういう感性はたいせつなのだと思う。(154頁)
最近「黄金時代」の日本映画に関する本を読むようになって気づいたのは、この時期の映画は原作のないオリジナル脚本のものが多いということ。小津映画などはその典型だろう。『小説 田中絹代を読むと、これらオリジナル脚本はたいていスター俳優に当てて(想定して)書かれている。「歌舞伎みたいだなあ」と感じたのだ。たとえば小團次や五代目菊五郎に当てて世話狂言を書き下ろした黙阿弥のように。これがすなわち「スター主義」の一面であろう。
たしかに映画はスターあってこそ面白い。もちろん面白いストーリーなくして映画は成り立たない。しかし、面白いストーリーを作るためには、それを演じるスター俳優の存在が不可欠だ。あのスターにこういう物語のこういう役柄を演じさせたら面白のでは、という発想。文芸大作を否定するものではないが、脚本と俳優がピタリとはまった映画を観る快楽が私のなかに徐々に芽ばえつつある。