魅力は緩急とエキゾティズム

熊の敷石

堀江敏幸さんの芥川賞受賞作『熊の敷石』*1講談社文庫に入った。堀江作品初の文庫化である。書店で見つけてほくほくと購入し、嬉しさのあまり帰りの電車でページをめくったら止まらなくなり、帰宅後もそのまま読みついでその夜のうちに読み終えてしまった。
先日の芥川賞若い女性二人が最年少で受賞したということで、受賞作掲載の『文藝春秋』が重版されるという空前の騒ぎになっているが、そのいっぽうで堀江さんのこのような作品もまた同じ芥川賞受賞作であるということが奇跡のように思える。芥川賞、ひいてはわが国の文学シーンも多種多様であるものよ。
さて、本書は再読になる。元版を読んだのは2001年6月のこと(感想は旧読前読後2001/7/1条)。文庫版解説の川上弘美さんは、堀江さんの文章について、こう書いている。

水の上を流れてゆく一枚の葉の軌跡、を描くことが多くの小説であるとするなら、堀江敏幸の小説は、一枚の葉を流してゆく水のさまざまな姿、を描いているのかもしれない。水はいたるところにあって、澄んでいたり濁っていたり、あるときは流れあるときは淀み、凍ったりもするし蒸発して空気に溶け入ってしまったりもする。それらを描くとき、文章は移る。
私が本書に収録されている「熊の敷石」「砂売りが通る」「城址にて」三篇を読んで感じたことも、川上さんの上の議論とそう隔たらない地点にある。
平坦な土地をたゆたうようにゆったり流れている川の水が、あるとき(たいていは結末部分で)急に高低差のあるところにさしかかって川幅も狭まり、流れが急になる。胸騒ぎをおぼえるような騒々しさに突如巻き込まれる感覚。緩急自在な文章。
たとえば「熊の敷石」の結末部は実に1パラグラフ59行(文庫版で4頁半)が改行なしで、読む者に息継ぎをさせず畳みかけるように迫ってくる。城址にて」も、「熊の敷石」ほど長くはないが、結末のせきたてられるような感覚は同じ。このテンポは『いつか王子駅で』*2(新潮社)の冒頭で、店にカステラを忘れた正吉さんを主人公が追いかけるシーン、結末で咲ちゃんが陸上競技場のトラックを駆け抜けるシーンに共通するものであり、この緩急のつけかたこそが堀江作品の魅力のひとつであることを再認識したのである。
たとえば主人公がフランスで暮らしているという設定の堀江作品を読んでいると、そこに何気なく登場する道具立てが気になって仕方なくなってくる。仕事を終えてひと息つくためにぶらりと立ち寄ったカフェとか、町のパン屋で購うバゲット、それに塗るバターやジャム、来客をもてなすための珈琲や紅茶、それらを淹れるためのボルという容器。
カフェに入ってみたい。バゲットを食べてみたい。ボルというものを使って珈琲を淹れたい。ワインを飲みたい。缶詰を開けたい。何でもないことなのだけれども、それらには何か特別な、「物神」とでもいうべき雰囲気がまとわっている。
堀江作品におけるフランスに暮らす人間の日常的なふるまいは、東京の町の居酒屋で秋茄子のチーズとベーコン包み揚げ定食を食べ、その食後においしい珈琲を飲んだり、大家に招かれて「謹製鶏殻肉野菜盛りだくさんスープ」をふるまわれたり、とある商店街の中華定食屋で中華丼を注文し、それをレンゲですくって食べるのとまったく同じ位相にある。
堀江的世界に親しんでどっぷりつかっていると、ふいに聞き慣れない言葉が目に飛び込んでくる。カフェやバゲット、ボルといった、よく考えると何の変哲もない単語が、そんな体験をとおしえもいわれぬエキゾティックな対象となって脳裏に刻まれるのであった。