ポケモンという知的遊戯

ポケットの中の野生

中沢新一さんの文庫新刊『ポケットの中の野生―ポケモンと子ども』*1新潮文庫)を読み終えた。中沢さんの本を買って読むのはずいぶん久しぶりだ。
あたりのやわらかい、独特の息づかいをもったあの文体にしびれていたことがある。『悪党的思考』がすでに話題となり、ちょうど河出文庫南方熊楠コレクション全巻の責任編集に取り組まれていた頃だから、かれこれ十数年前のこと。そのころ私の書いたもの(といっても公にされた文章でなく、大学の単位レポートのような文章)は中沢さんの文体に大きく影響されていたのではないか。内容すべてを理解できる頭脳は持っていなかったが、わからないなりにも読み通すパワーはまだあった。
その後中沢さんの著作からは離れていたから、本書の元版(1997年、岩波書店のシリーズ「今ここに生きる子ども」の一冊として刊行)の存在は知らなかった。ましてや論じられているのはポケモンである。まったく関心がなかったといってよい。
ところがこのところ急速にポケモンの世界が身近になり、否応なく関心をもたざるを得ない羽目になってきたのだ。幼稚園に入園した長男が、友だちから感化されてポケモンに熱中しだした。それまではディズニーのキャラクターやアンパンマンのキャラクター一辺倒だったのが、いまではポケモン第一、次いで仮面ライダー(ついこの間555(ファイズ)が終了して新しいシリーズ「剣(ブレイド)」が始まった)と○○レンジャーシリーズ(現在アバレンジャー、まもなくデカレンジャーという新シリーズになる)である。男の子とはこういうものなのだろう。
毎週一本アニメの「ポケットモンスター」をレンタルして、時間があると身じろぎせず見続ける。あとの時間はお菓子のおまけでついてくるソフト人形を操ってポケモンマスターきどり。お風呂に入るときはかならず「ポケモン勝負やるぞ」と宣戦布告される。だから自ずと当方もポケモンの種類をおぼえないわけにはいかなくなる。知ってみるとこの世界、なるほど分類や進化という体系が構築されていて一筋縄ではいかずに面白い。子どもが熱中するのもわかる。
だから今回文庫に入った中沢さんの本には、懐かしさも手伝って飛びついた。元版が出た時点でポケモン任天堂ゲームボーイのソフトとしてのみ流行していた。いま私が当たり前だと思っているアニメやカードはその直後に制作、発売されたものだという。
驚くべきことに、本書で中沢さんは、ゲームブームの端緒であるインベーダーゲームから説き起こし、ポケモンフロイト精神分析学やレヴィ=ストロースの人類学などの概念を駆使して分析する。これを笑止と思う人はポケモンに縁なき衆生だろう。ポケモンは無意識下に眠っていた子どもの衝動を「野生の思考」としてすくいあげるというのである。現代において「野生の思考」はポケモンに夢中になる子どものなかに息づいている。また通信を介してポケモンを交換する仕組みを贈与論を援用して解釈するのも刺激的だ。
150におよぶポケモンを名付け、分類することの原初的興奮を次のように説明する。

この小さな仮想宇宙の中に一五〇種もの種を用意しておくことで、このゲームの作者たちは、流動的な生命の流れの中に非連続的な切れ目を入れようとしている。背後に連続して流れる何かの潜在的な力を直観している子どもたちは、そこに切れ目が入れられることで、カオスを秩序につくりかえる知的な喜びを味わうことになる。(111頁)
相変わらず私にはすっきりと理解できるような文章ではないけれども、「カオスを秩序につくりかえる知的な喜び」という言葉には納得できるものがある。ポケモンをおぼえてこのかた、長男はそれまで遊んでいた玩具をポケモンに見立てたり、レゴ(ブロック)で自分なりのポケモンを組み立て適当な名前を付け、それらを分類することに熱中している。造物主的な戯れというべきだろうか。ポケモンと聞くや目を輝かせる子どもの姿を眺めていると、うるさいながらも気分が落ち着くのであった。
ところで読んでいて気になったのは、こうした現代における「野生の思考」復権を担ったのが、わが国で生まれたポケモンというゲームであるという点。なぜ日本という国で「野生の思考」が突如よみがえったのか。日本でなければならないのか。諸外国(ここでは他の先進国という意味)から「野生の思考」は消え去ってしまったのか。
中沢さんはこう論じる。「野生の思考」とは、科学のように自然を対象化するのではなく、外の自然が人間の内部にひろがるもう一つの「自然」にくびれ込み、内も外もない「自由で流動的な力の場」でこそ活発に働く知性である。そうした「場」をつくるのは「日本人に特有の才能」である。ゆえに「野生の思考」がポケモンによって表出されたのだ、と。
こう言われてもやはりピンと来ずに情けないが、その後に続く数行の文章を読めば、意識と無意識のちょうど中間にある意識ではコントロールしにくい対象(つまり夢や幽霊・妖怪などのことか)を造型・処理する才能に日本人は歴史的にも長けているからということがおぼろげながら理解される。それが現代においてはポケモンとして捕捉されているのである。